友人に誘われて渋谷まで現代美術の個展を見に行った。グループ展みたいなもので、八人くらいの芸術家が参加するという。「全員が十代〜二十代くらい、一番歳がいっててもまぁ三十五歳くらいという若手の芸術家ばかり集めました。」というのがウリらしく、来ているお客さんも若い人ばかりだった。
俺も日々、汗を流したり血を流したり、熊と戦ったりとまではいかないまでも、鳩くらいとは戦ったりしながら、極めて真剣に、この上ない情熱を持って、脳みその回線を二〜三個ぶっとばしながら、頭から本当にプシューっと煙が出て来そうな勢いで『表現する』ということを追求し、新しい表現に挑戦し続けているので、そこに行くにあたりなんだか自分の同志に会いに行くような気分になり、俺も自分の愛や情熱をけなされたりしたらものすごくイヤなので「俺たちは同志なのだ。たとえそれが何に対する情熱(例えばスマップへの愛が表現された作品とか)の所産であっても、俺としては最大の敬意を払おう」と襟を正し、背筋を伸ばして会場に入った。
まず最初に目に付いたのは物干し台であった。題は『洗濯物』。どういうものかというと、T字型の古びて錆びた物干し台に物干し竿が二本掛けられていて、そこにパンティーやブラジャーがぶら下がっているというようなかんじのものだ。おおこれはこれはさっそく面白そうではないかと観察。
まず、色が塗られていたり文字が書かれてあったりはしないかとすみずみまでチェック。だがどう見てもそういう手が加えられた形跡は無し。なるほどそれじゃあ匂いだなと思いくんくんくんくん、全体的に匂いを嗅いでみるが匂いも無し。地面スレスレのところに何かあるかもしれないので、ほっぺたを床にくっつけたりしながら観察していたので周りの人が笑ったりしている。「バカモノめ。表現ってのは本っ当ーーーーに大変なんだぞ。おまえらも少しは敬意を払え。感じ取る気がないなら来るな。アホめ。」などと思いつつ遠くから見てみたりするが、遠くから見ると何か特別な形になっているという訳でもないらしい。
あとは触るかなめるくらいしかない。係員みたいな人を探すがいないので思い切って勝手に触ってみた。だが触ってみたかんじも別段変わった所はなく、竿もパンティーもブラも普通の素材で作られているようである。ちょっと待て。おかしいぞ。もしかしてただ単純に「こういうのを屋内の会場に作品として置けば面白いんじゃないか。」とか言ってただブラやパンティーを干しているだけなのかと思い、少し敬意を失いながらもムキになって、パンティーなどを今度はさっきよりもさらに思い切って「えいっ」と女みたいな掛け声と共になめてみた。
どっかーーーーん。何の味もしないじゃないか。どういうことなんだ。責任者出て来い。こんなんで入場料二千円も取んのか。ふざけんな。それのどこに愛がある。どこに何の情熱が表れている。人をバカにすんな。俺の爪の垢を飲ませてやる。作ったヤツどこだ。フジタヨシコどこにいる。ちょっと来い。表現をなめるな。魂のほとばしりを見せてやる。フジタヨシコどこだ。と騒いでいるとニキビ面色白イヤミメガネの兄ちゃんがやって来て、「すいません。今日はこの作者は来ていないんです」と言った。
あ〜〜れ〜〜〜。
かなりのダメージであった。
その後気合を入れ直し一応ぜんぶ目を通したのだが、どれもこれも似たようなモンだった。
エノモトカスミという女などは特にひどかった。床にいろんな色や形の薬のカプセルを敷き詰めて、その周りにドライフラワーをあしらっていたのだが、その奥の方の壁際に携帯電話とサングラスが置いてあって、
「むむむ、これはかなり不自然だぞ。きっと何か意味があるに違いない。ドラッグの周りに自然の美の象徴であるところの『花』の枯れた姿であるドライフラワーをあしらうことによって、どこかしら物悲しい『都市の現在』を表しているように見えるが、問題はこの携帯電話とサングラスだ。携帯電話はテクノロジーとかハイテクの象徴であると考えるとしても、このサングラスはいったい・・・。」
などと考えながらもこれまた色々と観察していると、
「あっ、ゴメーン。ちょっと待ってて。」
という声がして、バキバキ、バキバキとその錠剤を踏んづけて、奥にあるその携帯電話とサングラスを盗ってテッテケテッテケ逃げていく女がいる。なんて失礼なヤツだ。なんてことだ。いったいどういう神経をしているのだ。ゆるせん。と、その女をひっつかまえて、
「オイ、ドロボー、勝手に取ったり、動かしたりすんなボケ。」
と言うと、
「これはあたしのモノです。あたしがエノモトカスミです。あたしが作者です。」
と言う。なんてこったい。もちろん俺の魂のほとばしりを見せてやった。
これはいったいどういうことなんだろう。結局その日見た作品の中で一番まともなものでさえ、この世で最もいいかげんな豆腐屋の作った豆腐よりも手間がかかっていなかった。いや、べつに豆腐じゃなくてもいいんだけど、たとえば豆腐だったら大豆を蒸したり、絞ったり、ニガリを入れて固めたりして、どんなに手を抜いてもかなりの手間がかかる。少なくともいろんな薬を買って来て床にバラまくだけよりも手間がかかるし、パンティーやブラジャーを干すだけよりも工夫が要るのだ。本当に大切な気持ちならもっと手段にこだわるハズだ。情熱があればもっと工夫をこらすハズなのだ。
人はよく大切なのは情熱だと言う。情熱だけが人の心を打つとも言う。でもその時言っている情熱というのは「あきらめない気持ち」でもなければ「つよい思い込み」でもない。情熱というのは気持ちや心というよりも、手間暇をかけたり工夫をこらすこと、その行動そのものなのだ。行動的な追求する愛を情熱というのだ。
俺はたとえそれが、
「今世の中でどういう作品が人気があるのか分析してみたの。現代アートっぽいでしょ。」
という訴えだとしても、そこに情熱が表れていれば、どんなに気にくわなくてもその情熱に敬意を払うつもりだった。だがしかしそこには、ただ「っぽいでしょ」というしょーもない思いつきがごくごく簡単に、そのまんまの形で表されているだけだった。あんなもんは作品とはいわない。もっとはじっこ歩けうんこたれ。ある友人がいた。
すごく頭のいい男だったが、彼には生きる気力みたいなものが欠落していた。
素晴らしいアイディアをたくさん持っていたが、たいていの人には理解できず、そして彼はいつも面倒臭く、思いつきっぱなしのまま三年前自殺をした。
遺書の最初の言葉は「素っ裸で吊るされてるみたいだ。」だった。
何かかっこいい口実を作って生きるより、彼のように部屋に閉じこもって餓死してしまった方がまだいくらか美しい気もする。人のために生きるなんて欺瞞だし、自分のために生きるほど図々しくもなれない、ただなんとなく生きるには彼は少し頭が良すぎたんだろう。人にも会わず、飯も食わず、ただ黙って死を待つほんの二〜三週間の間、彼はやっと初めて本当に生きれたのかもしれない。
ただ歌が好きなだけならわざわざ人前で歌ったりはしない。それならオナニーをするように一人で歌えばいい。わざわざ人前で歌うのは生きる証しをたてたいから歌うのだ。「我思う、ゆえに我あり」では満足出来ないから歌うのだ。人に見てもらうことでしかその生きる証しはたてられないから歌うのだ。図々しくもただただ自分のために、自分の生に執着するがゆえに歌うのだ。だからこそ切実なのだ。生に直結しない表現にリアリティーなどあるワケがない。
あの頃、俺は悟りたかった。生への執着を捨て、ただ一人ひっそりと生きてみたかった。すべてのこだわりを捨て、自然の流れに身をまかせ、ただ一人しずかに枯れてみたかった。が、それはただの思い込みだった。彼の死を知ったとき、俺はそれをさみしく思ったのだ。本当に悟りたいのなら俺はそれを羨ましく思ったハズだ。俺は本当は心の底では、ぜんぜん悟りたくなんかなかったのだ。彼は素晴らしいアイディアをたくさん持っていた。その気になれば誰よりも苛烈に生きれた。地球の上にあぐらをかいて、神にちんぽこしゃぶらせることだってできた。彼は天才だった。天才が悟るなんて馬鹿げてる。俺はその時やっと自分が天才だったことを思い出した。
情熱のない奴はすみっこの方でひっそりと生きろ。地球の食いぶち一人分の情熱もないのなら意味なく食うな。どうでもいいんなら何にもするな。用がないんならここでウロウロしてないで早く帰れ。面倒臭いならわざわざ生きるな。それこそ自分の作品を他人に見せるくらいなら、自分の耳をひきちぎるくらいのこだわりを持ってから来い。何かを作るくらいの情熱が少しでもあるんなら、なぜそれをもっと愛してやらない。もっともっともっともっと狂うくらい愛しろよな。
怒ったら軽蔑するぞ。もう。
情熱あるところ追求あり
追求あるところ挑戦あり
挑戦あるところかがやきあり
無心になるな夢中になれ
その愛こそすべて