なぜ歌うのかということについて
ニヒル越え
何かをやって誉められたって
僕がいるとはかぎらない
ぶん殴って蹴とばして
ぶち壊したってかぎらない
まぶしい景色
真っ白い景色
ここにいるよと言ってみたいが
そうもいかないニヒル越え
からっぽかもしれないってのに
君にやさしくしてんのさ
何にもわかっちゃいないのに
どんな顔して歩くのさ
木陰の下で
日陰の隅で
遠くを見ているつもり
行くに行けないニヒル越え
君が死んでも悲しくないのは
悲しいことだろ 知ってるよ
図々しくなんかないんだろ
君を好きでもいいんだろ
すべての僕を
飢え死にさせて
僕から自由になるんだ
死ぬか越えるかニヒル越え
「表現について」
コミュニケーションというのは情報の交換である。
マスターベーションのように自己完結するものを表現とは言わない。
何かを表現するということは、意図的に何らかの情報を発信するということだ。
そしてその情報が着信してしまえば必ず何らかのリアクションが起こる。
人は経験としてそれを知っている。
相手に対して全くリアクションを求めずに発信する、ということは有り得ない。
だから何かを表現するということは、他者とのコミュニケーションを求めている、と言ってよい。
ではなぜ表現者達は他者とのコミュニケーションを求めるのか。
表現者達よ
表現者ならば認めるべきだ、自分が死を恐れていることを
表現者ならば認めるべきだ、自らの弱さを
表現者ならば認めるべきだ、自らの執着を
表現者ならば認めるべきだ、自らの傲慢を
表現者ならば認めるべきだ、自らの不遜を
表現者ならば認めるべきだ、君は自己の存在の確認を他者に強要しているのだ
表現者ならば認めるべきだ、君はその弱きゆえに祈っているのだ
表現者達よ
せめて情熱を持て
表現者達よ
君は本当にどうしようもない
だから愛してやれ
人が、全ての人間が得たがっているある種の充実感、その全ては実存感と呼んでもいいのではないだろうか。
人は全て実存感を得たがっている。
これに異論を唱える者がいるだろうか。
オレは愛とは実存感を得たいと願う気持ちそのものだと思っている。
異性に対する愛は、他者に投影することによって自己の存在を知りたい、そうやって実存感を得たい、という気持ちと言える。
愛の動機、いや愛そのものは、「そのまま」では知ることが出来ない、感じることさえ出来ない「自分(ひいては世界)」を感じたいという願いと言えるんじゃないだろうか。
まず実存し得るために愛が、その情熱が必要なのだと思う。
そしてコミュニケーションはその実証そのものだ。
愛には対象が必要なんだし、それだけが実存の実証になる。
例えば普通「灰皿がそこに有る」と言った時、その存在を保証するものは、自分の感覚でしかない。
しかし灰皿ならば見て触って確認することができるが、それを保証するはずの自分の感覚は自分で確認することができない。
だから他人に確認してもらう。
それがコミュニケーションだ。
オレには一切のコミュニケートを越えたところに、それら全てを否定してもなお揺るぎない自己の存在を信じることは出来ない。
信じるための実証そのものがコミュニケーションなのだ。
それは全ての存在についても同じことが言える。
灰皿の物理的存在にしたって、オレの実存にしたって、概念の存在にしたって、ありとあらゆるものが、コミュニケーションによってしか存在出来ない。
ものというものはすべて比べることによってしか見えないのだ。
それは死によっても越えられない。
単純な話、死だって何らかのコミュニケーションの結果としてしか現れない。
はしたないと恥じ入って、人との接触を絶って山にこもって飢え死にしても、ほんのいくらかは上品なのかもしれないが、何も否定はできない。
愛を求めて、その方法を求めて、コミュニケーションを求めて、他者を求めて、そうやってオレ等が生きていることは、例えそれを弱いと感じたり、下品だと感じたとしても否定出来ない。
他者の確認なしには、オレ等は灰皿なみにさえ実存できないのだ。
リアリティーを持った表現というのは、生に直結した、切実な叫びのことだと思う。
表現というのは実存的な行為だ。
「何で歌うのか」
と訪ねられたらオレは少しだけ考えて、
「死にたくないんだ」
と答えることにしている。
それこそ、
「愛こそすべて」
と答えるのだって、やぶさかではない。
「天然歌手」
オレは何に興味があるって、
「人はどこまで夢中になれるのか。」
というのに興味がある。
そういう人間に興味がある。
とてもとてもものすごく興味がある。
空手バカ一代はマンガだし、あれがある程度フィクションだというのは、オレだって当然知っている。
でも、あのグレート・マス・オーヤマが、20代の若い頃に山にこもったという話は真実だ。
オレは今25歳だが、
「もう空手しかない。」
と思って山にこもるなんてことは、たぶんできない。
あの動物王国でおなじみのムツゴロウさんは、自分の夢のための実験だと言って、無人島で熊と暮らしたという。
オレも動物は嫌いな方じゃないが、そこまで好きにはなれない。
あのミスタージャイアンツ長島茂雄は、バッティングについて質問されると、たびたびフルチンになったという。
腰の入ったスイングでは、絶対にチンチンは揺れないのだという。
オレはチンチンには自信がない。
「なんとかバカ」は素敵だ。
本気すぎてシャレになるくらい本気なんて、
いったいどれくらいの本気なんだろう。
そんなに好きになれるなんて、なんて素敵なんだろう。
オレも一つくらいはバカになれるものを、
本気で夢中になれるものを、
いつもいつでも持っていたいと思うのだ。
レースにはメカニックとドライバーが必要だ。
ボクシングにはボクサーとトレーナー、音楽にだってプロデューサーがいて、歌手がいる。
どんなに速いマシーンを作ったって、それを乗りこなして運転してくれるドライバーがいなければ、
何の意味もない。
「アホほどの情熱」と「クールな知性」は、それぞれが一人では何もできない、車の両輪みたいなものだと思う。
オレは小学校5年生までうんこの時には必ず歌っていた。
何故だかわからない。
物心のついたときからずっとそうだったのだ。
喜びと歌は密接につながりあっていたし、うんこと喜びも同じく密接につながりあっていた。
喜びを真ん中にして、向かって左にうんこ、右に歌があった。
平均すると15分間のうんこタイム、その最初から最後まで、トイレの中にはいいかんじにエコーのかかったオレの歌声が響きわたっていた。
天然ボケという言葉がある。
この言い方を借りるなら、オレはその頃、天然歌手だった。たしかにそうだった。
けれどある日ある時、オレはその時まで知らなかった「他人」というものを知ってしまった。
「他人」というものが自分と同じようにものを考える同じ人間だということを知ってしまった。
人間という生きもののその生物学的なシステムがほとんど同じであるということを知ってしまった。
人類が人類という時点ですでにいろんなものを共有していることを知ってしまった。
その共有している部分を手がかりにオレ達が理解し合えるかもしれないことを知ってしまった。
あの驚きをオレは忘れない。
あれはオレの自意識の生まれた日だ。
あれはオレにとってのコミュニケーションの初めて生まれた日だ。
あれはオレにとって自分の外に、世界というものが初めて現れた日だ。
あの日、オレは初めて、自分以外の他者というものを意識することによって、自分が歌を歌っているということを知ったのだ。
オレは歌いながら、初めて自分の歌を聞いていた。
もはやオレは天然歌手ではなかった。
オレは今もこの自意識を大切に捨てずにいる。
世界を愛しているからだ。
そしてオレはそのまま天然に戻った。
世界をもっと愛しているからだ。
けれどももう一度、
いつの間にか自分でも気付かずに歌っているオレを、また新しく取り戻す道のなんと険しいことだったろう。
オレはこのままずっと意識的な天然歌手でいたい。
一見矛盾してるように見えるが、意識的であることと天然(無・意識的)であるということが、ものすごい高温の下でなら、熱くなってひとつに溶け合うということが、たしかに有り得るということをオレは知っている。
例えばうんこをしている時とかに。
くるっと一周回ってこんにちは、
ただ世界が歌としてありますように。
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