ゴンチャロフ



ずっと前、神戸にいた時、奇妙なカンバンを見たことがある。
道を歩いていると、2本おきくらいに、
「ゴンチャロフ」
と書いた、(たぶんブリキ製の)カンバンが張ってあったのだ。
そして不思議なことにそのカンバンには、
それだけしか書いていなかったのである。
茶色に白抜きで「ゴンチャロフ」、こんだけ。
住所とか、電話番号とか、そういうのもなし。
何を売っている店なのか、
そもそもその「ゴンチャロフ」が店なのかどうかも全くの謎につつまれている。
「ゴンチャロフ」。
ただ、もう笑っちゃうくらいにそんだけなのだ。
どうもロシア語くさい。
「もしかするとこれは何かの暗号なのかもしれない。」
オレはとっさにあたりを見回した。
高いビルをチェックしてその死角に入る。
なんてったってロシアである。
スパイの本場である。
新聞の尋ね人欄を使って殺人を依頼するとか、
そういうことはある。
ゴルゴ13でも「Gに会いたい」とか、
そういうかんじで新聞を利用して連絡を取り合っていた。
電信柱の広告を利用するのもおかしくはない。
いや、電信柱の方が分かりやすい。
連絡を待つ方としても毎日新聞の尋ね人欄をチェックするよりか、
たまにその通りを歩くだけの方がやりやすいだろう。
オレもあまりこの「ゴンチャロフ」をしげしげと見つめていると、
KGBとかに誤解されて消されてしまうかもしれない。
用心にこしたことはない。
オレは何事もなかったかのように口笛を吹きながら、
その場所を後にした。
とにかく危険な香りのするカンバンだったのだ。


コードネームK-8号は凄腕のスナイパーだった。
だがもう5年も前に足を洗っている。
なんだかいろんなことがばかばかしくなってしまったのだ。
日の出商店街の奥、山下たばこ店を右に曲がると、その孤児院がある。
K-8号はいつものようにこりす公園のベンチに腰掛けて、
タバコに火を点けた。
彼の座ったベンチからはちょうどその孤児院、
友愛園のグラウンドがよく見えるようになっている。
彼はこの5年間、毎週日曜日の午後1時から午後3時まで、
かかさずそのベンチに座っては考えていた。
その視線の向こう、木の隙間から見える友愛園のグラウンドには、
一人の少女がいる。
歳の頃は5歳くらいのかわいらしい少女だ。
なわとびをしながら楽しそうに笑っている。
「イワノフ、俺は逃げ切れるだろうか。」
K-8号はもう何度も自分に問い続けた問いを、
答の分かり切った問いを、又自らに問いかけた。
そうなのだ、結局は逃げ続けるしかないのだ。


かわいそうなK-8号。
K-8号はきっと本当はその少女と平和に生きていきたいだけなのだ。
ああ、きっとK-8号はこのカンバンを見てしまう。
見てしまったらまた組織のために人を殺さなければならない。
このカンバンはきっと組織の、「逃がしはしない」というメッセージなのだ。
あの忌まわしい作戦のコードネーム、それがこの「ゴンチャロフ」なのだ。
組織に残らざるをえなかったイワノフ。
きっと組織はイワノフを人質にするだろう。
そしてイワノフは自分の命よりもK-8号の自由を望むだろう。
ああ、だからこそ、そんなイワノフだからこそ、
K-8号はまた悲しい殺人を、忌まわしい仕事を、繰り返さざるをえないのだ。
組織はその残虐なやり方で、二人の友情を利用するのだ。
ちくしょう。
口笛を吹きながら歩いていたオレは、立ち止まり、
元来た道を引き返し始めた。
そうだ。
見て見ぬフリなどできるもんか。
何事もなかったように立ち去ろうとするなんて、
オレはなんて情けないのだ。
KGBの狙撃は怖い。
確かに怖い。
でも今ここで何もしなかったらオレはきっと一生後悔するに違いないのだ。
待ってろK-8号、いや阿部篤志。
おまえと志保ちゃんのささやかな幸せを誰にも壊させやしない。
確かにおまえは何人もの人の命を奪った。
けれどそのつぐないはもう充分じゃないか。
平和が訪れたら、きっと平和が訪れたら、
志保ちゃんに胸を張って言えるだろう。
待たせたね、お父さんが迎えに来たよ、と。


カンバンの前にしずかに立ちはだかったオレは、
その小さな隙間に指を掛けてこん身の力を込めた。
ばりばり。
カンバンはどんどんはがれていく。
殺すなら殺せKGB。
オレはもう逃げやしない。
何が危険な香りのカンバンだ。
ばりばり。
オレは自分には関係がないと言って知らないふりなどしないぜ。
待ってろ志保ちゃん。
ばりばり。
世の中は捨てたもんじゃないんだ。
真の男のためなら、
そのささやかな幸せのためなら、
こうして命を賭けるバカヤロウが、
ちゃんと存在してるんだ。
オレにはどうしても、
このカンバンを見せたくない男がいる。


橋の上から宮川に「ゴンチャロフ」を捨てた後、
オレは充実した気分だった。
六甲の山々の向こうに真っ赤な夕日が射していた。
心地良い疲れを感じながらタバコを取り出し、
山に帰って行く鳥達や、街の雑踏や、川の流れや、
山々から吹き付ける風の音に耳をすました。
遠くの方で子供が泣いている。
「やだー、ゴンチャロフのチョコ食べたーい。」
ふと見ると「ゴンチャロフ」と書いてある洋菓子屋さんがあった。
オレはコートのえりを立て、
口笛を吹きながら、何事もなかったようにその場を後にした。
タバコの煙だけが、名残惜しそうにいつまでも風に吹かれていた。
グッバイ神戸。
グッバイゴンチャロフ。
グッバイ、オレの独りよがりのセンチメンタルストーリーズ。




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