求道者たれ




自らの幸せを自分以外の何者にも預けるな。
自らの幸せの下駄は決して他人に預けてはならない。
「有名になるのが夢です。」
なんて言うな。
その夢は完全に間違っている。
「彼女の笑顔のために生きます。」
なんて言うな。
もし君がそんなあやふやな人生で鬱病にならないとしたらそれは完全な白痴だ。
「有名」なんてものは自分でどうこうできる種類のものじゃない。
彼女の笑顔だって彼女のものだ。
そんなものを目標に据えたら、とたん君は他人のルールの中で戦っていかなければならなくなる。
自分から自分の生のイニシアチブを他人に譲り渡すことになる。
君は「他人が何を求めているか」を考えなければならなくなる。
浮世の機嫌を伺って丁稚みたいにへーこら頭を下げるのは商人どもにまかせておけ。
もし君がこの世に何かの意味を求めるのなら、君は君の人生に具体的で明確な指針を持たなければならない。
君は求道者にならなければならない。
何を考えているのかさっぱり分からない他人の笑顔のために君に何ができるというのだ。
多くの人は自分自身でさえも自分が何を求めているのかさっぱり分かっちゃいないというのに。
曖昧な他人の作る曖昧なルールの中で、いったい君は何をしようというのか。
他人とか世間とか時代とか、そういう曖昧なものに向かった意志にどんな具体性が見いだせ得るというのか。
目標は常に自分の中におけ。
人生の意味は求道の中にこそある。
何がしかの指針があってこそ、この無意味な人生もやっと意味を持つのだ。

オレのばあちゃんは小学校も満足に出ていないが竹細工は良く編んだ。
一本の竹から小刀一つで立派な篭を作り出した。
オレはその手際に感動して、何時間もばあちゃんの指先を見ていた。
思想というのもひとつの技術である。
洗練された技術の賜物として竹細工の篭があるように、思想というのもひとつの洗練された技術の賜物である。
人は芸術やら学問だと言うと何かそういう手仕事とは違うもの、何やら高尚で特別なものと考えがちだがそんなことはない。
ばあちゃんが竹を使って篭を編むのと何ら変わらない地平で、思想家達は言葉を編んでいるのだ。
ばあちゃんを一人の芸術家として評する気は毛頭ないが、しかしあれこそが芸術の立つ最初の地平であることは間違いがない。
意志というものが唯一この世に意味をもたらすものだとすれば、技術だけがその小さな意味を生の原理にまで強化し得る唯一のものなのだ。
なぜならば技術なきところには何の求道も有り得ないからである。
技術だけがより大きな必要を生み、意味をもたらし、情熱を生み出す。
人に具体的で明確な指針を与えるものは技術でありその求道であるのだ。
もし例えば君がギターを弾くのなら、そしてそれが好きならば君の今やることは一つしかない。
もっと上手くなるためにもっと練習しなさい。
もっと好きになるために練習しなさい。
現代では好きになる能力が問われている。
神は死んだし、倫理も道徳もどこかに消え失せつつある。
だからほとんどシュールみたいに無意味な情熱が、それでも何かを好きになる能力をこそが問われている。
現代の生の価値観の最後の切実な帰着点はとてもくだらない青春漫画みたいな話だが、「好きだから」ただこの一点につきるのだ。
求道の無い所に生はない。
生への切実な願いも何かの技術と結びつかなければ、太陽光の下のナメクジみたいにすぐにひからびて死んでしまうだろう。
この無意味な世界でそれでも生きたいと願うなら、今すぐ練習を始めなさい。
いや、きっともう君はすでに生きる中で何かの練習をしているはずだ。
何でもいい、もっと自覚的にそれを磨きなさい。
その技術の求道だけが君に生を与えてくれる。
さっきからオレは「技術」と言っているが、もしかするとそれこそ生きるのもひとつの技術であると言っているように聞こえてどこか嫌なかんじがするかもしれない。
しかし「技術」という視点がなければ人はそこに何の具体性を見いだすこともできない。
生が単なる技術の問題だと考えることによって明確な具体性を持った指針が生まれるのだ。
上手くなりなさい。
そうと決まればやることもいいかんじに限られてくる。
オレはいい仕事を残すためにのみ生きている。

中東辺りではまだ「ギルド」が残っているという話を以前聞いたことがある。
「ギルド」は直訳すると「組合」だが、特に職人の組合みたいな意味で使われる。
あの有名なフリーメーソンとかも元は「ギルド」なのだが、昔のヨーロッパ等で行われていたある種の徒弟制度のことも「ギルド」と呼ぶ。
残っていると言うのはその徒弟制度の「ギルド」のことだ。
そこの社会では普通の子供達は学校になど行かない。
6歳くらいになるとすぐに親もとをはなれて例えばペルシャ絨毯屋さんのギルドに行く。
それでもう親とはそれっきりだ。
ほとんど会わない。
そこでたくさんの同じような境遇の子供達と下働きをしながら一緒になって暮らす。
そこが彼の新しい家族であり、生涯の仕事を学ぶ場所であり、友達を作る場所であり、読み書きを覚える学校なのだ。
彼の目標は「親方のように立派な職人になること」だ。
彼の毎日は充実している。
習得すべき技術も今日やるべきことも明日やるべきことも、当面の課題も将来の夢も価値観もヒエラルキーも、明確な具体性と一貫性を持って人生に強い意味を与えている。
オレはそれは素晴らしいことだと思う。
それこそが人生だ。

さて翻って日本ではどうだろう。
日本にはギルドの代わりに学校がある。
だがしかし個人個人の生にとってギルドの果たすような役割を日本の学校ははたして担っているだろうか。
習得すべき技術と、その向こうにある生活を学校は提示しきれているだろうか。
そこに一貫した明確な価値や倫理を提示しきれているだろうか。
学問は技術である。
だから求道たりえる。
学問こそすべてだと、おまえももっと勉強して親方=先生・教授・博士みたいな人になれと、なぜ言えないのだろう。
人生のすべてはペルシャ絨毯でも学問でも竹細工でも何でもいいのだ。
しかし義務教育だと息まくんなら学問こそが人生のすべてだとなぜ言い切ってしまえない。
そこで生きろと言ってあげれないくせに、でも学校行けでは子供達はノイローゼになってしまう。
技術が明日につながっていないのだ。
日本ではいい大学を卒業した、という資格のみが問われている。
しかし現代の人間の生にとって必要なのは具体的な指針なのだ。
それは技術の習得に伴ってしか現れやしないというのに、日々はソツなくこなしさえすればいい、ただ大卒という資格のみが必要なのだと言うのなら、誰が学問を自分の生きる道と定め、そこに生きる意味や価値を見いだすというのだろう。
資格を手に入れたらとっとと学問の世界からは離れるんだぞと最初に言い含められてそれでも学問の道を歩むものはほら見てみろ、よっぽどの天の邪鬼か、変人か、白痴だ。

南米のチリには大学は国立大学しかない。
そして基本的に無試験である。
だから毎年入学者が5万人くらいいるという話だ。
しかしすぐについていけない者は脱落して行くので、結果として勉強をする環境はちゃんと整えられているそうだ。
オレはこの話を聞いた時ちょっと感動した。
人類の多様性のために学問は必要だ。
しかし日本では学問を人の生きるひとつの道として考えてはいないようだ。
もし人の生きるひとつの道だと思うのならなぜテストをする。
スタジアムにプロ野球を見に来た客に主催者が野球のルールとか、去年のイチローの打率だとか、桑田の防御率だとかをテストするか?
それと同じことだ。
学問を楽しみたい者をテストするなんてそんな失礼で的外れなことはない。
従業員を雇うんじゃないんだから。

別にオレは学歴社会が個人の実存を阻害する、なんてことを言いたいわけじゃない。
そんなことはどうでもいい。
しかしこんなに技術職の減った現在、学問が一番メジャーで可能性のある技術職だというのにそれもこんなにお粗末な状況では人々はどこで人々は自己実存とか自己実現すればいいのだ。
どう求道すればいいのだ。
と言いたかったのだ。
職人さんはどんどん減っていく。
だからみんなアーティストになる、とか言い出すのだ。

「おたく」と呼ばれる人達がいる。
今の日本ではもはや職業がそのまま求道につながるようなことはあまりない。
求道はいつの間にか仕事から離れ、社会からも、生活からも離れていく。
結果、彼等の純粋性はどんどん先鋭化していく。
彼等のピュアなハートはほとんどシュールみたいに無意味なことに情熱を燃やす。
しかしそこには憶えなければならないことも、問われるべき問いもある。
身につけるべきひとつの技術がある。
これからの日本はさらにどんどんおたくを量産していくだろう。
個人が実存を得るために、求道者たるために、ある高度な技術を要する職業が日本には少なすぎるからだ。
だから「生活」とは全く離れた地平に、ある種の「技術職」として「おたく」が確立する余地があるのだ。
「夢をあきらめないで」という言葉がしょーもない中学生の心を打つのも、そんな何も身につけるべき技術の少ない現代日本を象徴している。

求道者たれ。
おたくでもいい。
自らの幸せの下駄は決して他人に預けてはならない。
オレは今日も勝手に目標を定めて、勝手に叶えて、勝手にどんどん幸せになっている。
現実など単なる条件である。
人は流行などとは完全に遊離した求道の中でこそ真に生きるのだ。
(あっ、この「流行」は「不易と流行」の「流行」ね。)



2000 3/10 又吉究(またよしきわむ) 





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