沖縄の歴史




「沖縄の米軍基地を沖縄にかえせ。」という言葉を、実際にリアリティーを持った叫びとして叫ぶには、オレにとって沖縄で過ごした日々は致命的なほどに平安だった。
しかしおそらく最も戦争を忌み嫌う民族の土地を、戦争の為に使うなどというのは、これっぽっちも笑えない皮肉だ。

オレは沖縄に生まれ育ち、そこで世界のどこの若者も同じように送るようなありきたりの思春期を過ごした。
沖縄はオレにとって故郷だが、オレにとって故郷は思春期というもののシンボルであり、そして思春期というものはおそらく「政治」から一番遠い場所にある。
オレは心情的には社会の一員ですらない、いつまでも思春期の旅人であり、よそものであり、詩人であると勝手に思っている。
だからどこかの歴史家が言う沖縄の歴史(学校で教える歴史は政治の一形態でしかない)や、どこかのジャーナリストがよく言う日本の国際政治の犠牲となった沖縄については、オレにとっての故郷である沖縄とは違った、オレにはあまり関係のないただの物語くらいに思っている。
しかしそのただの物語を、オレはとてもよく知っている。
いろんな人から伝え聞いたそのただの物語はオレの胸を打ったし、その迫力はオレの心を揺さぶった。
その事実だけはオレのリアルな歴史なのだ。
オレには伝える義務はない。
オレには伝える資格さえないかもしれない。
けれども伝えてみようと思う。
前置きが長かったが許してくれ。
誰かは知りたいかもしれない。
オレの知っている話を話したいと思う。
ただの物語として聞いてくれ。



沖縄には原始人の化石も出土しているし、三国時代があったり、いろいろと長い歴史があるのだが、とりあえず話は日本で言うところの戦国時代から始めよう。
まず、豊臣秀吉が薩摩藩(今の鹿児島)と密約を交わすところから話は始まる。
あくまでも密約なので、これについては歴史家の中でもなかったとする人もいたりしてちょっと曖昧なのだが、いちおう歴史としてはそういうことになっている。
豊臣秀吉が自分の天下取りに功績のあった薩摩藩に褒美は何がいいと聞いた際、薩摩は琉球をくれと言ったというのだ。
なんだ、それは、聞いたこともないぞ、南の島だと、なんだ、欲のない奴め。
秀吉はそう言ってそばにあった扇子にさらさらと琉球をやると書いた。
扇子に、というところが憎らしい。
正式な文書ですらなかったのが、後の薩摩の琉球侵略の家康への口実となるのだ。
天下を取った秀吉にしてみれば、大陸よりこっち側の島々は全部自分のものだと思っている。
簡単な気持ちでやると言ったのだろう。
だがしかしその頃沖縄は琉球王国という独立国であり、中国の朝貢国(注1)であった。

(注1)
中国という国名を「世界の真ん中の国」という意味だと理解している人がいるとしたらそれは間違いである。
王ならどこの国の王だって自分の国が世界の真ん中だと思っている。
中華という考え方には、この世に中国以外の国はないのだ。
中国以外の国は国でなく、ただの辺境地帯の蛮族でしかない。
この世にただ一人の(中国の)天子に統べられてこそ国は国として成り立つのだ。
その昔、中国は間違いなく世界一栄えた強国であったから、アジア圏のいろんな国は中国に贈り物を持って国として認めてもらいに行った。
中国に認められることは国家にとってのステータスであり、廻りの国々への素晴らしいけん制となった。
贈り物を持って国として認めてもらいに行くことを「朝貢する」と言い、それで晴れて国として認められた国を朝貢国と言う。
大昔の日本でもわざわざ舟に乗って朝貢した国はあった。
奴国王の金印というのは日本にあった奴国という国が中国の朝貢国であったまぎれもない証拠であり、魏志倭人伝の卑弥呼も中国の魏(三国志好きな人なら誰でも知ってる。中国の三国時代、日本は卑弥呼の時代だったのだ。)に朝貢している。

その頃琉球王国はその地理的な利点を生かし中国や日本、東南アジア諸国との貿易でけっこう儲けていた。
薩摩はそれに目をつけていた。
秀吉が生きていた頃は朝鮮出兵などで琉球どころではなかったのだろう。
江戸時代の始め頃、薩摩は件の扇子を切り札に家康の許可を貰い、満を持して琉球を侵略する。
そして日本中が鎖国だった中、琉球を名目上独立国としたまま薩摩だけが琉球を通じて独自に国際貿易を始める。
正確に言えば琉球に薩摩に収めるべき税を徹底的にかけたのだ。
砂糖や甘蔗(サツマイモ。これは本当は中国の芋で、薩摩が沖縄から持ち帰った後、日本に広まった。)、異国の珍しい品々、香辛料、米、織物等が税として収められた。
明治維新の頃、薩摩藩が外様であるにも関わらず強力だったのは、多分に琉球人からしぼりとった税のおかげだっただろう。
その取り立てはすさまじいものだったらしく、人頭税(注2)が払えない離島の家族は自分の子供を殺したと言う。

(注2)
薩摩からの重税を払うため、琉球政府はさらなる弱者である離島の島民に「人頭税」という特殊な税をかけた。
普通、税は財産や利益にかかるものだが、人頭税は一人あたまいくら、という税なのだ。
財産もなく、何の利益もあげていない者でも一定の税を払わなければならない。
その頃は離島全体がとても悲惨な状態にあり、八重山や石垣では自殺する者が絶えなかったという。
税が重かったとは言っても王府の役人はきちんとした給料を貰っていたのだ。
いつの世もしわ寄せは弱者にくる。


飢饉の時には蘇鉄(そてつ。南国に生えるパイナップルみたいな木。毒があるが、念入りにあくぬきをすれば木の幹を食える。食ったことはないがとてもまずいらしい。ほとんど唯一、まずすぎるがゆえに税の対象にならなかったので、沖縄では非常用の食物として、いろんなところに植えられた。)を食ったりして沖縄の民衆は飢えをしのいだ。
その頃の悲惨さを伝える民話は今でも島中いたるところに残っている。

侵略の際、琉球王府も何もせずに手をこまねいていたわけではない。
侵略されて間もない頃は王府も薩摩を追い出すために、中国を頼ったりしていろいろと手を尽くした。
実際、長い太平の世が続いた琉球にはろくな武力がなく(その頃の琉球は武力、つまりサムライの支配する社会ではなく、貴族の支配する世の中であった。その頃の琉球に住むすべての人々は、戦争など見たことも聞いたこともなかったのだ。)、まだ戦国の記憶の残る日本のサムライ達にはとうてい太刀打ちできなかったから(戦国時代、世界中を眺めても一番戦争をやっていたのは日本だった。その頃世界で一番鉄砲を保有していたのは日本であった。兵法や武術なども発達しており、軍事力は間違いなく世界一だったと言われている。)、中国に頼るより他になかったのである。
琉球は広い意味で中国の一地方であるのだから、中国は大国の威信にかけてその日本の挑戦をしりぞけてくれるはずだったのだ。
しかし中国は内紛や北方の民との戦で国力が疲弊しきっており、わざわざ数ある朝貢国の中のひとつであるさして重要でない琉球まで遠征して、日本という小国のさらに小さな部族である薩摩を追い出すことなどはできなかった。
これはオレの勝手な憶測だが、朝鮮出兵の際、日本の軍隊の強力さを知ったのも理由のひとつなのかもしれない。
日本は朝鮮出兵の際、内部分裂の末、補給路を断たれ負けたが、肉弾戦にはめっぽう強かったらしい。

沖縄は中国を信じて裏切られた。
以降長らく薩摩の支配が続くことになる。

(ちょっと寄り道)
薩摩の支配下の沖縄は刀などの武器をすべて薩摩に奪われていた。
そこで沖縄の住民は少しでも薩摩に対抗するため、そしておそらく自らのプライドのため、主に素手で戦うある武術を生み出す。
カラテである。
カラテは中国の「唐」からやってきた拳法と、古くから琉球にあった「手(ティー)」 (とても踊りに近い武術らしい)という格闘技を合わせて考案され、「唐手(カラテ)」として沖縄で発祥する。
その頃の唐手は武器の代わりに鎌や鍬、棒やヌンチャク、トンファーなどを使ったものもあったらしいが、今では琉球古武術として残るのみで、多くの技術が失われてしまったという。
それは後に日本に渡り(加納治五郎の講道館柔道や柔術などとのカラミもとても面白い話なのだがまた今度。しかし昔の漫画や映画ではいつも柔道家が主役で、空手家が悪役というのもなんだかなというかんじだ。)「空手(カラテ)」となって、その後世界中に広まり、世界の格闘技に深い影響を与えることとなる。


薩摩の琉球侵略は1609年のことである。
ここまでの文章では薩摩の侵略後、琉球は不幸のどん底にいたような印象を受けるかもしれない。
けれども厳しい暮らしの中でも琉球は明るくほがらかだった。
左翼系の人はすぐに沖縄の不幸ばかりを強調したがるが、それは逆に沖縄の尊厳を傷つけることになるとオレは思う。
オレは親戚のおばさんから、おじいさんやおばあさんから、戦時中の悲惨な体験をたくさん聞かされたが、それと同時に、どこの教科書や歴史書にも載っていない戦時中の面白い笑い話もたくさん聞いた。どんなに悲惨な状況でも、探せばどこかに笑顔があるのがきっと沖縄なのだと思う。
オレはこの文章で日本を批判したいのではない。
アメリカを批判したいのではない。
薩摩を批判したいのではない。
オレはこの長い文の末尾に、沖縄をあるものに比喩したいだけなのだ。
皆に「沖縄」とどう付き合えばいいのか、少しばかりのヒントを示したいだけなのだ。

廃藩置県(明治4年・1871年)の後、1879年(明治12年)に琉球処分(琉球王国の明治政府への強制的組み込み)が行われる60年ほど前、1816年にバジル・ホールという名の英国海軍士官が英鑑ライアラ号の艦長として沖縄に来ている。
バジル・ホールは6週間沖縄に滞在した。
そしてその帰航途中、バジルはある有名人と会見することになった。
あの有名な、不可能という文字のない欠陥辞書の持ち主、ナポレオン・ポナパルトだ。
バジル・ホールはセントヘレナ島でナポレオンと会見する。
バジル・ホールの航海記にはその会見の模様がこう載っている。

「ナポレオン・ボナパルトの知識は広く、深く、彼の知らない話を持ち出すということは不可能に近い業だった。・・・そんなナポレオンでも琉球の人々の話になると、さすがにびっくりしたものだ。私の語る大琉球の不思議な話にまごつき、説明できずにいるナポレオンの姿に、私は密かに満足を覚えたものだ。
大琉球の人々は武器を持たないという話にナポレオンはなによりも仰天した。
彼は叫んだ。『武器を持たぬ!大砲も持たないというのか?小銃ぐらいはどうだ?』
マスッケット銃さえ持っていないのです。と私は答えた。『それでは槍はどうだ?弓矢もないのか?』どれもありません。
『何ということか』ナポレオンは拳を握りしめ、声を張り上げた。
『武器を持たずに、一体どう戦争をするというのだ?』
我々の知る限り、彼の人々は戦争をしたことがないばかりか、外敵も内敵も知らず、平和に暮らしている、と答えるほかなかった。
『戦争を知らないと?』見下げ果てた、信じられんという表情を浮かべて、ナポレオンは叫んだ。あたかも太陽の輝く世界に戦争を知らない人々が存在することが狂気の沙汰とでもいうように。
(『青い目が見た「大琉球」』(ニライ社)「バジル・ホール航海記」より)

バジル・ホールは薩摩の琉球侵略について知らなかったのだろうか。
オレには分からない。
けれど温和な琉球人に彼が驚く姿は容易に想像できる。
どこかの誰かにはただの「いいかげん」にしか見えないような底抜けのやさしさと純朴さを持った沖縄人をオレはたくさん知っている。
オレは15年前、沖縄を離れてから、人生を謳歌することを認めず、善意を信じない人間の誤解や偏見に傷つけられた多くの無垢な魂を見た。
琉球時代の沖縄には、人を疑うことを知らない多くの人間が誰も見たことのないような「なれあい」の中を生きていたのだとオレは思う。
多少はかしこくなったかもしれないが、今でも沖縄はお人好しだらけのしあわせな、あるいは愚かな、おめでたい島なのだ。
それは誰かが言った天国にとてもよく似ている。
生活の貧しさと、ある「かなしみ」を除いては。

バジル・ホールと一緒に沖縄に滞在した英国人医師マクロードがこんなことを言っている。

琉球人は友好的で信頼のおける民族だ。しかも、こよなく幸せな民族だ。島民の多くは、天が与えてくれたその才能と自ら養った知識の片鱗(ヘんりん)を示してくれた。海に囲まれた島国であることを考えると、いよいよ驚きだ。絶海の孤島に閉じ込められると、どんな民族でも偏狭で卑屈になるものだ。ところが、わが友の琉球民族にはこの理屈は全くあてはまらないのだ。


人頭税の離島でだって、人々は毎夜海岸で歌を歌い、踊り、酒を飲み、恋をしたはずだ。


さて、それでも一応の独立国である琉球王国は日本の「沖縄県」になる。
中国とも薩摩ともなんとか仲良くやっていきたい心優しいがしかし甘ちゃんの琉球は、武力を持った他国の思惑にこれからどんどん翻弄されていくこととなる。


1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカの東インド艦隊指令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀にその勇姿を現わした。
その後日本は激動の幕末を迎えることとなる。
幕末の日本の話はいろいろな小説や映画にもなっているからオレがわざわざここに書く必要もあるまい。
しかし幕府や朝廷がどうだったかは皆知っていても、アメリカの思惑の方はあまり知られていない。
実はアメリカはペリーの前にも開国を求める使節を日本に派遣している。
アメリカはその頃盛んに行われていた太平洋での捕鯨のための補給基地がどうしても欲しかったのだ(注3)。
しかしその時の使節は高圧的な態度など取らず、礼儀正しくやったがためやんわりと日本に開国を断られた。
そこでペリーの出番となったわけだ。
ペリーはなんとしても日本を開国させねばならなかったから、当時西欧諸国に出回っていた日本に関する書物を徹底的に勉強した。
そして出航に先立ちペリーは3年前長崎にアメリカ漁船の漂流者を受け取りに行った事のあるグリーン中佐に会いに行く。
このときにグリーン中佐は日本人の性向や慣習についていろいろと予備知識を提供する。
そして日本の役人には高圧的な態度でのぞむことを強く勧める。
日本人は相手が弱いと見るとつけあがり強いと見ると卑屈になるというのがグリーンの主張であった。
江戸から遠い長崎での交渉ごとは避け、できれば将軍の都府に近い港湾に艦隊を進め脅威を与えればすんなり開国するはずだと。
ペリーはまさにその通りのことを実行したのだ。


(注3)
蒸気機関による産業革命がおこり、西欧では特に工業用の油が不足していた。
アメリカは太平洋で鯨を捕りまくった。
そして油だけをしぼり、身は食わずにすべて捨てていた。
アメリカは鯨が絶滅の危機に瀕しているから日本は捕鯨をやめるべきだと言うが、鯨が絶滅しそうになっているのは自分達が19世紀のあまりに短期間に、あまりにたくさんの鯨を捕りすぎたことも、大きな原因のひとつであることを認めるべきだ。
と、少し話がずれたが、あの有名なジョン万次郎も捕鯨船に拾われているし、その頃太平洋にはかなりの数のアメリカの捕鯨船がいたらしい。
極東の補給基地はアメリカにとってどうしても必要だったのだ。
捕鯨をやめた今でもそれは変わらない。
太平洋に軍を展開するなら、日本の港が、空港が必要なのだ。
日本とアメリカは太平洋を挟んだ隣近所なのである。


ペリーの浦賀へのルートは、太平洋のセントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを迂回して、セイロン、シンガポール、香港、上海、そして最後に琉球に寄港する、というものだった。
もちろん琉球には薪や水、食料の補給のために立ち寄ったのだが、メキシコ戦争の英雄であるペリーには別の思惑もあったらしい。
ペリーはアフリカ西岸のマディラ島から海軍長官に当てた書簡に「日本政府がもしわがほうの要求を受け入れず、不幸にして武力と流血を伴った場合は、日本を攻撃する足場としてかの国の南方諸島に1,2の根拠地を占領したい」と書いており、琉球寄港は下見の意味も含まれていたのだ。
沖縄は日本と東南アジアと中国、台湾などを同時に睨むことのできるその素晴らしい立地条件により、大昔のある短い時期には一大貿易国家としていい目をみることもできたが、それ以降はそのせいで皆に狙われることになってしまった。
一族代々住んでいたのがたまたま銀座だったというだけで、地上げ屋に狙われつづける老夫婦みたいだ。

しかしペリーもやはりバジル・ホールと同じように琉球には魅せられたらしい。
ペリーも後に琉球を世界一幸せで平和な島だと語っている。
琉球は貿易国家であったから語学に堪能な者も多く、英語を喋る者もいて(注4)それにもペリーは大変驚いたという。

(注4)
板良敷朝忠(いたらしきちょうちゅう)

牧志朝忠(板良敷朝忠1818〜1862)は、ペリーが琉球に来たときに通訳を務め、しかも英語で通訳をしてペリーたちを驚かせたらしい。
英語は安仁屋政輔に学び、異国通事(通訳)となる。
薩摩とくに島津斉彬に語学力を買われて、異例の出世を果たすが、斉彬の死後、後盾を失ったせいか牧志・恩河疑獄に巻き込まれて投獄の憂き目に遭う。
その後薩摩に請われて、薩摩に送られるも、その途中で入水自殺をする。
自殺の理由はいまだに謎につつまれており、他殺であったとする歴史家もいる。



廃藩置県(明治4年・1871年)の後、1879年(明治12年)に琉球処分(琉球王国の明治政府への強制的組み込み)が行われた。
それまで名目上は琉球王国という独立国だった沖縄は、この琉球処分により日本の一地方である「沖縄県」となった。
国王が平民となり、士族も身分を剥奪され、中央政府からやってきた知事が沖縄を統治した。
県庁の職員に沖縄の者はほとんどいなく、彼等は沖縄人を見下していたと言われる。
沖縄人には参政権さえなかった。
その頃ある王府の高官が中国の柴禁城に行き切腹をし、「沖縄を見捨てないでくれ」と涙ながらに訴えたという話もあるが、歴史的な証拠には乏しい。
しかし沖縄に暮らしたこともない中央政府の官僚が、日本でのやり方そのままに琉球を統治しようとしたのだから、様々な反発があったであろうことは想像にかたくない。
天皇を崇拝せず、自分達が大和民族であるという意識も皆無である(当たり前だが)沖縄人を官僚達は差別し、あくまでも高圧的に統治しようとした。(注5)

(注5)
沖縄の自由民権運動の父、謝花昇(じゃばなのぼる)は最後の琉球王、尚泰の治政中1865年、東風平(こちんだ)の貧しい農家に生まれたとされている。
彼は才能を見いだされ苦学の末、廃藩置県の11年後、最初の県費留学生として東京に派遣された。
5人の留学生中、平民出身は謝花だけだったという。
謝花は東京農科大学(現東京大学農学部)を卒業し、沖縄初の農学士となり、高等官の身分で県技師として沖縄県庁に勤務した。
その翌年、悪名高き奈良原繁県知事(鹿児島県人)が赴任して来る。
沖縄の宗教も文化も無視し、民衆の意向を全く尊重しない奈良原と、謝花は何度も対立する。
特に杣山(そまやま)開墾払い下げ問題では農民層の立場に立つ謝花は、国の権益を守ろうとする奈良原と激しく対立したと言われる。
そこで奈良原は、邪魔になった謝花昇を開墾主任から解任し、県政を思いのままにした。
以後、謝花の生涯は奈良原知事との闘争に費やされる。
謝花は奈良原知事罷免を要請し、東京で精力的に運動する。
親交の深かった自由民権運動の板垣退助を通じ、時の大隈・板垣内閣の内諾を得たとも言われているが、これは憲政党内閣の崩壊で失敗に終わる。
しかし謝花は、これにひるまず沖縄に戻り同志と共に沖縄倶楽部を結成する。
そして機関誌「沖縄時論」を発刊して参政権、県政革新を主張、奈良原一派の暴政を追及した。
これに対し奈良原知事は、脅迫や妨害を加え生命さえも狙い始める。
(この頃謝花は知事が雇ったという暴漢に、日本刀で襲撃までされている。)
しかし知事だけでなく、沖縄の旧支配層まで批判の矛先を向けた謝花の運動は、次第に孤立していく。
同志も奈良原の脅迫や懐柔により離散し、大衆は動かず、資金も枯渇し、運動は衰退する。
財産も使い果たし、妨害のため県内での再就職もかなわず、謝花は県外に就職しようと山口県の任地に赴任する。
そしてその途中の神戸駅構内で、突然発狂する。
27歳だったという。
列車の窓から見える沖縄とはまるで違う本土の景色を、彼はどんな気持ちで眺めていたのだろうか。
発狂から16年後の1908年、謝花昇は43歳で寂しい死を迎える。
沖縄で実際に衆議院選挙で議員を選出したのは、 謝花昇の死の3年後、本土より22年も遅れてのことだった。


「県民は一般に軍事思想が幼稚で、国家意識も薄弱なので、徴兵を忌避ようという考えが強い」  
「沖縄警部隊区徴募概況」1910年(明治43年)

明治政府は「神社神道」を「国家の宗教」とし国民の精神的統制を図ろうとした。
国家権力による国民の心の管理・統制は、大正14(1925年)4月22日「治安維持法」の公布によりいっそう強化された。
明治頃までは沖縄人には自分達が「大和民族」であるという意識はまだあまりなかったらしいが、大正あたりから少しずつ様子が変わり始める。
日琉同祖論というのが流行り始め、沖縄人も日本人も同じ祖先を持つ兄弟なのだ、という風潮になってくる。
琉球王の祖先は平家に敗れて落ち延びた源義経の叔父さんであるという伝説が作られたのもこの頃である。(もちろんこれはとんでもない作り話である。ジンギスカンが源義経であったとする伝説もこの頃に作られている。それらの伝説は日本人の自尊心をくすぐり、侵略を是とする風潮の遠からぬ原因ともなった。)
その背景には徹底した皇国教育と日本への同化政策があった。
小学校では「方言札」というものが作られ、方言を喋った者は罰を与えられた。
帝国主義が日本を覆うと共に、沖縄の者も天皇を崇拝するようになった。
左翼系の歴史観では沖縄は嫌々戦争に巻き込まれた可哀想な犠牲者のように語られるが、事実は全くの逆である。
沖縄は天皇を愛し、日本のために一途に戦った。
本土の者の沖縄への差別は根強いものがあった。
沖縄人は「おまえらは日本人ではない。」と言われるのを最もくやしがった。
沖縄人にとって、天皇への愛が膨らむということはまたコンプレックスも肥大するということであった。
日本を誇れば誇るほど、自らの出自を忌々しく思ったのである。
昔からの日本人でないがゆえに、最も大和民族に憧れ、真の大和民族たろうとしたのは沖縄人であった。
現代に生きる沖縄人は皆自分達が沖縄人であることを誇ろうと必死に独自の文化の発掘にいそしんでいるが、戦前には全く逆のことが行われた。
日本との共通項ばかりを追い求め、沖縄独自の文化を恥じ、隠蔽しようとした。
そのことを危惧し、沖縄の文化を後世に伝えようとした者はごくわずかの学者のみであった。

オレは沖縄を孤児に例えたい。
中国という最初の、信じていた親に裏切られた沖縄という南洋の孤児は、その次の日本という親にいじめられながらもいつしか心を開き、新しい親の愛を得ようと必死に頑張っていた。
もう裏切られるのはまっぴらだった。
そして太平洋戦争が勃発するのである。
沖縄は証明しようとした。
他のどの息子とも同じようにやれることを。
親を喜ばせようと。
認められようと。

ここからである。
沖縄の片思いの旅が始まるのは。
同じ日本人として、バカにされず、対等に仲間として扱ってもらうために、沖縄は課せられた仕事を一途に一途にはたそうと努力するのだ。

第二次世界大戦及び太平洋戦争に関する書物は膨大で、今さらオレのつけ加えるような話はない。
入門書のようなものも出ているし、映画や漫画や小説仕立てになってとても読みやすいものも数多く出版されている。
オレより詳しい人は山ほどいるだろう。
日本がどのように戦争への道を進んでいったのかについては省略させてもらう。
沖縄戦のみについて話そうと思う。

1945年(昭和29年)4月、約18万の米軍戦闘部隊が沖縄に上陸。
沖縄進攻の米軍の総兵力は54万人。
対する日本軍沖縄守備隊約10万人。
その内訳は正規部隊7万、地元徴集軍属、防衛隊等3万。
3ヶ月にわたり激しい戦闘が行われる。
日米両軍の戦力にかなりの優劣があるのに、この小さな島で3ヶ月以上の激しい戦闘が展開された理由は、日本軍にとっては本土決戦を一日でも長く引きのばす時間稼ぎであったとも言われている。

沖縄戦での戦死者は日本軍が約9万人。
(正規軍人約6万6千人、地元徴集軍属、防衛隊2万4千人)
米軍約1万2千人。
沖縄住民約10万人。
当時の沖縄の人口は約45万人ほどであったから、軍属や防衛隊を含めると住民の死者は4人〜3人に1人の割合である。
戦闘が終結するまでに日本軍・米軍・沖縄住民合わせて1日当たり2千人余りが死んだことになる。

沖縄人の心にこの戦争体験が残したものは計り知れない。
その頃沖縄に生きた者で、死体を見ずにすんだ者は一人もいない。
目の前で肉親が死に、友人が死ぬ。
そのほとんどは爆撃によるものだったが、仲間だと思っていた日本兵に殺された沖縄人もいたと言う。
1945年(昭和20年)4月9日、日本軍から一通の命令書が出されている。
「爾今軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」
当時、標準語を喋れる者が極めて少なかった沖縄で、無実の住民が数多くスパイ容疑により拷問を加えられ、殺されたと言われている。
日本兵が徴用と称して民間人の食料を奪い、民間人の家族が自分達のために掘った壕から彼等を追い出して自分達のために利用したという証言も多い。
米兵に見つかるのを恐れ、同じ壕に非難していた沖縄住民の幼児を殺したり、降伏しようとする民間人を背中から撃ったという話もある。
もちろんすべてのケースにおいてそうであったのではないだろう。
住民に優しい日本兵もいたに違いない。
しかし今も生きている沖縄の戦争経験者のほとんどすべてが日本兵への不信を口にする。
皆が言う。
米軍の捕虜となった時、どんな扱いを受けるか恐れていたが、捕虜収容所には暖かい毛布もあれば、薬もあり、今まで食べたこともないような美味しい食べ物もあったと。
米兵はとても優しかったと。
日本兵に比べれば、米兵が神か仏のように見えたと。
日本兵は住民を虫けらのように扱ったと。

誤解のないように別の立場からの話も二つ。

その1

中退はしてしまったがオレの母校でもある沖縄県立首里高等学校からは、戦時中学徒動員と呼ばれるものがあり、多くの学生が戦争にかり出された。
彼等は鉄血勤王隊という部隊を結成し実際に米兵と戦った。
同じように沖縄の女子学生によって作られ、負傷兵の看護などにあたったひめゆり部隊については「ひめゆりの塔」という映画にもなったが、鉄血勤王隊については語られることが少ない。
そのほとんどが戦死してしまっていて、証言する者に乏しいというのが最大の理由だろうが、戦後どんどん左傾化していった沖縄教員組合などの思惑もからんでいるとオレは勝手に推測している。
鉄血勤王隊の遺品の中には辞世の句が数多く残っている。
そのすべては(すべてがである)、日本のために、陛下のために、勇敢に戦って死んでまいります、というような内容のものである。
彼等は「日本人として」死を決して戦った。
しかしそれを戦後になってそれでは都合が悪いからと言って「これは上官によって無理矢理書かされたものである」と主張する教育者さえいる。
あくまで沖縄は戦争を無理強いされたということにしようとして史実をねつ造する者さえいる。
(ちなみに、何年か前にベストセラーとなった「きけわだつみのこえ」という辞世の句ばかりを集めた本(これは沖縄戦の本ではないが)でも、意図的に肉親や恋人や友人との別れを悲しむものばかりが集められている。)
現在沖縄の戦争体験者によって語られる日本兵への不信も、戦後に形作られた「我々は捨て石にされた」という意識が少なからず影響を与えているのかもしれない。

その2

沖縄戦については悲惨な物語ばかりが語られるが、オレが叔母さんから聞いた話もひとつ。
悲惨さもあるが、どこかほのぼのとしている話だ。
オレの母方の家族史である。

オレの母親は戦争の前年に生まれている。
戦争になるととたんに祖母は食料不足やストレスなどの影響で母乳が出なくなってしまう。
そこで10人の兄弟がいた母は、兄貴や姉貴の捕ってきた蛙で生き延びることになる。
何匹かの蛙をぐつぐつ煮て、それを布に含ませて母乳代わりにしたという。
がりがりに痩せて、家族の誰もがすぐに死んでしまうと思っていたらしいが、蛙の汁には意外に栄養があったらしく、母は生き延びてその後オレを生むのだ。
戦争が始まるとすぐに祖父が兵隊にとられてしまったので、祖母は1人で11人の子供を抱えて戦火の中を逃げた。
母などはまだ赤ちゃんだったので、祖母は着物の懐に入れて走って逃げたという。
もしも落ちたらそれまでだとあきらめるつもりだったと祖母は笑っていた。
兵隊にとられる前に祖父が裏山に作った壕があったらしく、家族はいつもここに非難した。
入り口なども木に隠れるようになっていてその壕の出来は素晴らしかったというが、戦火が激しくなってくるとその壕は隣家のN家に奪われてしまう。
女と子供だけの家庭であるから隣家のN家は戦争の最初の頃はなにかと世話を焼いてくれたらしいが、彼等の壕はおんぼろで、いつの間にか交換することにされてしまったのだ。
今もって奴等は許せん、と叔母さんは言っていた。
祖父の姉は緑内障で盲目だった。
その頃、彼女は祖父の家に住んでいた。
彼女は自分が足手まといになるといけないと言って家族が非難する時にも一人家に残ったのだそうだ。
祖母にしたって11人の子供を連れて、彼女をおぶって逃げることはできなかった。
戦火が激しくなってくるともう家に帰ることができなくなる。
一週間に一度くらいのペースで様子を見に家に帰るのは叔母さんの仕事だった。
叔母さんがわずかの食料を持って帰ると、屋根は砲弾で砕け、おそらく彼女が恐怖のあまりにしたのであろうひっかき傷で畳はすべてはがれていたという。
しばらく経って、彼女は庭先でうつぶせになって死んでいたそうだ。

昼の間は壕の中でじっとしている。
そして夜になると村に行き、畑を掘り返して芋などを調達してくる。
照明弾がパーっと光るとあぜ道にふせる。
ところどころには死体が転がっている。
時には必死で逃げる際、その死体を踏みつけてしまう。
そうやって母の一家は戦争を生き延びた。
同じ沖縄でも南部地区は激戦区で、かなりの民間人が死んでいるが、母の一家の本部地区ではそんなに厳しくはなく、一家の誰一人として戦争で失うことはなかった。

ある日壕が米兵に見つかったことがあったという。
米兵は一人でやって来て、民間人、しかも女子供ばかりの壕だと知るとあわれに思ったのか、腰の袋から麦チョコとバターをくれて去っていったのだそうだ。
米兵は女を犯し、子供でも容赦なく殺すと教えられていたから皆恐怖したらしいが、祖母は置いていったものが食料だと分かるととても喜んだ。
麦チョコは食べるととても美味しかったから毎日一粒づつ、皆で分けて食べた。
しかし問題はバターである。
その頃の沖縄人はバターなど見たことも聞いたこともなかったのだ。
悩んだあげく祖母はこれを大きな鍋でお湯に溶かし、スープとして飲むことにした。
変な味だとも思ったそうだが、きっと栄養のあるものに違いないと一家ですべて飲み干した。
翌日からしばらく一家の者は皆ひどい下痢に悩まされたそうだ。
壕のそばにあったトイレ用のなんとかいう柔らかい葉っぱはその何日かでハゲになってしまったという。
おそらく戦時中の脂肪分とは縁のない内蔵に、バターの油分は強烈だったのだろう。
叔母さんは今でもこの話を話す時大いに笑う。
そりゃ、バターはどう食べるか悩むよな。

戦争が終わり、一家は捕虜のキャンプに行く。
心配なのは祖父の行方である。
配給の食物を食べながらいつも祖父の話をしたという。
兵隊として米兵と戦い死んだのかもしれない。
このまま一生お父さんには会えないかもしれない。
平和になった途端、思い出されるのは祖父の姿である。
叔母さんも毎日祖父を思い出して泣いたという。
そんなある日、ある人が祖父を名護のキャンプで見かけたという。
祖母はオレの母や幼い子供の面倒を見なければならなかったから、兄弟の中で一番大きかった叔母さんと叔父さんが一家を代表して名護のキャンプまで行くことになった。
徒歩で行くよりなかったから2日がかりの大旅行である。
叔父さんも叔母さんも家族を失った大勢の人を見ていた。
腕や足を失った兵隊もたくさんいた。
父親は生きていたとしても大怪我をしてるかもしれない。
もしかするとそもそも父親を名護で見たというのも人違いなのかもしれない。
暗い旅行だったという。
キャンプ地にたどり着いた叔母さんと叔父さんはフェンス越しに中の人に訊ねる。
私達は父親を探しています。
今帰仁村仲宗根出身の大仲村梁喜徳(うふなかんだかりきとく)を知りませんか。
するとある人が教えてくれる。
ああ、その人なら奥の方にいるよ。中に入っておいで。
そして叔父さんと叔母さんは祖父と半年ぶりに再会するのだ。
そこには変わり果てた祖父の姿があった。
戦前からは見る影もない。
祖父は半年前には生やしていなかった立派な口ひげをたくわえて、肌つやも良くでっぷり太ってにこやかに叔父さんと叔母さんを迎えたという。
なんじゃそりゃ。

戦争が始まって祖父はすぐに米軍の捕虜となったそうだ。
その頃の沖縄人には珍しく読み書きそろばんができたので、祖父はキャンプの中で待遇の良い仕事を得ることができた。
皆に食料を配給する仕事である。
一家が戦火の中を逃げまどい、がりがりに痩せていく中、祖父は米兵の配給の食事ですっかり太ってしまっていた。
叔父さんと叔母さんに缶詰やらビスケットやらを持ちきれないほどたくさん持たせて、祖父はいずれすぐに帰るからと二人を近くまで送ったのだそうだ。

オレが大きくなってからも正月などで一家が集まるとよくこの話になった。
皆楽しそうだった。
戦時中にはとんでもない悲惨な話がどこにでも転がっていた。
しかし生き延びた者は皆、戦時下をも生活していたからこそ生きたのである。
どんな状況でも生きるとは生活することだ。
そして生活するとは社会とは関係のない、どこかしらもの悲しく滑稽な人間性の悲喜こもごもなのである。
目の前で両親の頭が吹き飛ぶのを見た少女を想って胸を痛めるのも人間性なら、太った親父を見て笑うのも人間性だ。
戦争を単純に考えてはいけない。


1945年6月6日。
自決の直前に海軍少将大田実から海軍次官宛てに、あの有名な電報が送られる。

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

(文中の□部分は不明)


現代語訳にするとこうだ。

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。
県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。

県民に対し、後世、陛下より特別のご配慮をしていただくことを願う。

(以上、Wikipediaより引用)

オレはこの電文を何度読んでも涙があふれてくる。
沖縄は頑張ったよ。
日本人として頑張ったのだ。
そして1945年6月23日、第32軍日本軍の壊滅により、沖縄戦は終結する。


日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約までの話は、これまた別の詳しい本に尋ねてもらうとして、終戦から1972年まで続いたアメリカによる沖縄の統治については誰もが知っているだろう。
しかし天皇が沖縄のアメリカによる占領を望むコメントを残したことについて知る人は少ない。

1978年、ヴァージニア州のマッカーサー記念館で、コートニー・ホイットニー将軍の残したメモの機密が解除された。
本当にアメリカが偉いなあと思うのは、どんな機密文書でも30年たったら自国の情報公開法に従ってそれを全て公開することである。
相手がイランの原理主義者だったとしても、ロシアの諜報部員だったとしてもだ。
ある日本の歴史家がこぼしていたが、近代の日本の歴史について公文書にあたりたくても、日本ではかなりの数の文書が見せてもらえないか、見せてもらえても(個人情報保護を名目に)墨だらけで用をなさないそうだ。
だから日本の歴史家はアメリカに行って公文書を見せてもらうんだそうだ。

さて、その「ホイットニー文書」には驚くべきことが書かれていた。

少し長いが引用する。

〈資料・A1〉対日占領軍総司令部政治顧問シーボルトから国務長官マーシャルあての書簡(1947年9月22日付)

主題 琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解
国務長官殿 在ワシントン

 拝啓
 天皇のアドバイザーの寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付のマッカーサー元帥あての自明の覚書のコピーを同封する光栄を有します。

 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国が下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。
                                 敬具
    合衆国対日政治顧問 代表部顧問
                  W・J・シーボルト
東京  1947年9月22日                                                               

〈資料・A2〉前記書簡に添付された総司令部外交部作成の「マッカーサー元帥のための覚書」(1947年9月20日)

「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問からの1947年9月22日付通信第1293号への同封文書
 コピー
 連合国最高司令官総司令部外交部
      1947年9月20日

 マッカーサー元帥のための覚書
 天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来にかんする天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。

 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役たち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような〃事件〃をひきおこすことをもおそれている日本国民のあいだで広く賛同を得るだろうと思っている。

 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借−25年ないし50年あるいはそれ以上−の擬制にもどづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島にたいして永続的野心をもたないことを日本国民に納得させまた、これにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。

 手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれは、前者の方法は、押しつけられた講話という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解をあやうくする可能性がある。
             W・J・シーボルト                                     

〈資料・A3〉米国務省政策企画部(部長=ジョージ・ケナン)からロベット国務次官あての勧告「琉球諸島の処理」
(1947年10月15日付)
 政策企画部
 琉球諸島の処理
       1947年10月15日
            国務省
1947年10月15日
U・ロベット殿

 国務、陸軍、海軍の三省連絡委(SWNCC)に琉球処理の問題の研究をさせるとの政策企画部の勧告を添付します。
貴下がこの勧告を承認されるならば、この文書を国務、陸軍、海軍、空軍の四者連絡委(SANACO〈かつてのSANCC〉)の書記にたいし、同連絡委に提出するようにとの指示をつけて伝達されるよう提案します。
      ジョージ・F・ケナン
      1947年10月15日

問題 北緯29度以南の琉球諸島の最終処理のための米国の政策決定
討論 統合参謀本部ならびにマッカーサー元帥は、米国が琉球列島の島じまにたいする実効支配を保持することは、米国の安全保障にとって不可欠であると指摘した。政策企画部は、陸軍および海軍の代表から、軍部の最新の考え方が米国の支配を北緯29度以南の島じまにたいしてのみ実施する必要があり、またその支配を戦略信託統治の形態とすべきであるとの説明をうけた。

 政策企画部は、米国の南琉球支配の原則をうけいれる。しかし、当部は、戦略信託統治があらゆる点で、米国支配のもっとも満足しうる形態であるとする納得のいく証拠を見たことはない。政策企画部は、米国が沖縄ならびにその他の必要な島じまにたいする軍事占領を、主権は日本が保持したままで、長期の租借−20年ないし50年あるいはそれ以上−にもとづいて継続すべきであると、日本の天皇が提案していると伝えられていることに留意する。当部はこの方式を戦略信託統治の代案として検討するのが当然だと考える。

 琉球の重要な部分にたいする戦略信託統治は、おそらく米国の財政的負担を伴うことになることを留意すべきである。これらの諸島は赤字地域である。戦争前、これら諸島は経済の欠陥を補うために日本に依存していた。統合参謀本部が1948財政年度における琉球にたいする米国の支出が2千8百万〜3千万ドルに達するものと、さしあたり見積もっていることは知られている

 当部は、対日講話締結後の琉球諸島の戦略信託統治の場合にともなう民政統治経費の固い見積もり額はみたことがない。これはわれわれの情報の重大なギャップである。

当部としては、a琉球諸島がバランスのとれた経済を達成できるのかどうか、bもしできないのなら、民政統治で資金と要員の両方について、米国にとっての継続的経費がどのくらいになるのか、についてはじめに知らなければ、琉球全体のあるいはその一部の戦略信託統治に関するいかなる勧告をおこなうことも正しくないと考える。米国が琉球の戦略信託統治をひきうけるとの勧告の支持を議会に求めるのであれば、このような情報がなければならないことはあきらかである。

 勧告 国務、陸軍、海軍、三者連絡委は、米国の南琉球支配がとりうるいくつかの徹底的な分析を準備するとともに、米国の軍事的必要に適合しかつこの政府にとっての不利益を最小限にする方式を勧告すべきである。   

(引用終わり)


「県民に対し、後世、陛下より特別のご配慮をしていただくことを願」われた天皇はそのわずか数年後に「疑いもなく私利に大きくもとづいている希望」から「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう」進言したのだ。

この文書が明るみに出たのは祖国復帰運動が終わり、沖縄が日本になってまだ間もない頃だった。
昭和天皇は生きていたが、このことについては何のコメントもしなかった。
まあ当たり前のことだが。
まだ戦争の記憶も色濃い70年代から80年代初頭、この文書が沖縄県民に与えた影響は非常に大きかった。
以降、沖縄は非常に左翼的な思潮が主流を占めるようになった。
沖縄の反天皇の意識は、「捨て石にされた」という恨みから来るものだ。
天皇陛下のためにあれだけ尽くし、努力し、辛酸を舐めたのに、天皇陛下は沖縄県民を捨てたのだ、というショックは近年まで続いた。
沖縄は左翼系の市民団体のパラダイスのようになり、日本の左翼的な思想家の論理の重要な立脚点となった。

しかし近年、あれはおそらく平成天皇の沖縄来島くらいからなのだと思うが、県民の意識は少しずつ変わってきているように感じる。
平成天皇は皇太子の頃から沖縄のことを度々口にしていた。

平成天皇は来島した時に、沖縄が戦争で味わった歴史について哀痛の念を感じているというふうなことをコメントする。
それを聞いてあっさりと涙を流した沖縄の老人もいた。
実際に戦争を生き抜いた世代にとって、あれはとても大きな意味を持っていたようだ。
彼等の思いはあのたった一言ですべて報われたのだろうか。
オレには分からない。
団塊生まれの活動家が国旗を焼く中、18歳の時、オレは沖縄を離れた。

「霧わたる 今帰仁村の あかときに 時告げの鶏 高らかに鳴く」
2000年(平成12年)宮中歌会始めの秋篠宮(文仁親王)殿下の歌だ。

2006年の今、オレは東京に住んでいる。
たまに公園を散歩するのだが、三線の練習をする若者をよく見かける。
15年前、アパートを借りに行った不動産屋では「沖縄人に貸す部屋はない」と言われたこともあった。
今ではオレの出身を聞くとほとんどの人が「いいなあ。沖縄なんですか。素晴らしいですね。」と言う。


沖縄の片思いの旅は終わったのだろうか。




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