俗悪と芸術




人は中庸を美徳とするが、オレは極端こそが美しいと思う。
極端は誠実で清潔でいさぎよい。
ほどほどに生きようとする者は本当に人生を愛しているだろうか。
情熱は極端を求め、中途半端を憎む。
情熱は生命の要だ。
人間の魂というものはおそらく情熱に共振するようにできている。
多くの人は極端を忌み嫌うが、その実極端なものに恋い焦がれている。

人類史上の多くの聖人達は情熱的に絶対を求めるゆえ、絶対のないこの世で、何も持たないという清潔をこそ選んだ。
彼等は情熱的に枯れた。
特に払われた注意というのは、それがどんなものであれ、不潔で、下品で、やかましい。
聖人達の懐には芸術など存在しなかった。
表現などというおしゃべりなものは、たとえそれがどんなに自然の素朴を真似ようとも、俗悪なものでしかない。
表現から俗悪を排するのが無理であるなら、表現そのものが俗悪であるなら、とことん俗悪を極めずして意味ある表現のあろうはずもない。
偉大な芸術家とはまた偉大な俗物であったろう。

大自然の美しさにかなう芸術などどこにも存在しない。
特に払われた注意というのは、それがどんなものであれ、不潔で、下品で、やかましい。
路傍に転がるただのちっぽけな石ころでさえ、どんな芸術でもかなわない品位というものを持っている。
何の意味も持たぬ直接な物体は、その直接さにおいて永遠の観賞にも耐えるだろう。
何の意味も持たないことは、それ自体が直接な観念だ。
生命は常にみっともなく地べたを這いずりまわっている。
人為の存在しない孤高の美を知る者が、孤独の意味を知る者が、それでも何かをこの世にあらわすという、そのかなしさだけが、ただの表現と芸術を分けるものだと思う。
人はただ人が恋しい。
芸術は徒労だが、芸術の持つかなしさは、人の心を打つ。

芸術家とは何と業の深い生き物だろう。
芸術は号泣する。
芸術は無惨に敗北する。
なるほど「芸術は爆発だ」とは至言である。
「芸術」として残るのは常にその残骸だけだが、それだけでも爆発のすさまじさを伝えるには充分だ。
芸術とは人為の極みである。
自然のふりをしようなどとはどだい無理な話だ。

正面から堂々と無駄骨を折ろう。
ひとつ残らず何もかも捨てるのでなければ捨てることに何の意味もない。
聖人には「やや聖人」とか「比較的聖人」なんてのはない。
清潔が無理ならとことん下品に生きることだけが唯一の清潔だろう。
人間のくせに不死のつもりで、「その時」を待とう。
とことんやるのが情熱だ。
極端は美しい。
2001 9/1 又吉究(またよしきわむ) 





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