徒然またよし日記・11月後半
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2001 11/26
風邪で具合が悪いがひきつづき沖縄の歴史について。
第二次世界大戦及び太平洋戦争に関する書物は膨大で、今さらオレのつけ加えるような話はない。
入門書のようなものも出ているし、映画や漫画や小説仕立てになってとても読みやすいものも数多く出版されている。
オレより詳しい人は山ほどいるだろう。
日本がどのように戦争への道を進んでいったのかについては省略させてもらう。
沖縄戦のみについて話そうと思う。
1945年(昭和29年)4月、約18万の米軍戦闘部隊が沖縄に上陸。
沖縄進攻の米軍の総兵力は54万人。
対する日本軍沖縄守備隊約10万人。
その内訳は正規部隊7万、地元徴集軍属、防衛隊等3万。
3ヶ月にわたり激しい戦闘が行われる。
日米両軍の戦力にかなりの優劣があるのに、この小さな島で3ヶ月以上の激しい戦闘が展開された理由は、日本軍にとっては本土決戦を一日でも長く引きのばす時間稼ぎであったとも言われている。
沖縄戦での戦死者は日本軍が約9万人。
(正規軍人約6万6千人、地元徴集軍属、防衛隊2万4千人)
米軍約1万2千人。
沖縄住民約10万人。
当時の沖縄の人口は約45万人ほどであったから、軍属や防衛隊を含めると住民の死者は4人〜3人に1人の割合である。
戦闘が終結するまでに日本軍・米軍・沖縄住民合わせて1日当たり2千人余りが死んだことになる。
沖縄人の心にこの戦争体験が残したものは計り知れない。
その頃沖縄に生きた者で、死体を見ずにすんだ者は一人もいない。
目の前で肉親が死に、友人が死ぬ。
そのほとんどは爆撃によるものだったが、仲間だと思っていた日本兵に殺された沖縄人も少なくない。
1945年(昭和20年)4月9日、日本軍から一通の命令書が出されている。
「爾今軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」
当時、標準語を喋れる者が極めて少なかった沖縄で、無実の住民が数多くスパイ容疑により拷問を加えられ、殺されたと言われている。
日本兵が徴用と称して民間人の食料を奪い、民間人の家族が自分達のために掘った壕から彼等を追い出して自分達のために利用したという証言も多い。
米兵に見つかるのを恐れ、同じ壕に非難していた沖縄住民の幼児を殺したり、降伏しようとする民間人を背中から撃ったという話もある。
もちろんすべてのケースにおいてそうであったのではないだろう。
住民に優しい日本兵もいたに違いない。
しかし今も生きている沖縄の戦争経験者のほとんどすべてが日本兵への不信を口にする。
皆が言う。
米軍の捕虜となった時、どんな扱いを受けるか恐れていたが、捕虜収容所には暖かい毛布もあれば、薬もあり、今まで食べたこともないような美味しい食べ物もあったと。
米兵はとても優しかったと。
日本兵に比べれば、米兵が神か仏のように見えたと。
日本兵は住民を虫けらのように扱ったと。
誤解のないように別の立場からの話も二つ。
その1
中退はしてしまったがオレの母校でもある沖縄県立首里高等学校からは、戦時中学徒動員と呼ばれるものがあり、多くの学生が戦争にかり出された。
彼等は鉄血勤王隊という部隊を結成し実際に米兵と戦った。
同じように沖縄の女子学生によって作られ、負傷兵の看護などにあたったひめゆり部隊については「ひめゆりの塔」という映画にもなったが、鉄血勤王隊については語られることが少ない。
そのほとんどが戦死してしまっていて、証言する者に乏しいというのが最大の理由だろうが、戦後どんどん左傾化していった沖縄教員組合などの思惑もからんでいるとオレは勝手に推測している。
鉄血勤王隊の遺品の中には辞世の句が数多く残っている。
そのすべては(すべてがである)、日本のために、陛下のために、勇敢に戦って死んでまいります、というような内容のものである。
彼等は「日本人として」死を決して戦った。
しかしそれを戦後になってそれでは都合が悪いからと言って「これは上官によって無理矢理書かされたものである」と主張する教育者さえいる。
あくまで沖縄は戦争を無理強いされたということにしようとして史実をねつ造する者さえいる。
(ちなみに、何年か前にベストセラーとなった「きけわだつみのこえ」という辞世の句ばかりを集めた本(これは沖縄戦の本ではないが)でも、意図的に肉親や恋人や友人との別れを悲しむものばかりが集められている。)
現在沖縄の戦争体験者によって語られる日本兵への不信も、戦後に形作られた「我々は捨て石にされた」という意識が少なからず影響を与えているのかもしれない。
その2
沖縄戦については悲惨な物語ばかりが語られるが、オレが叔母さんから聞いた話もひとつ。
悲惨さもあるが、どこかほのぼのとしている話だ。
オレの母方の家族史である。
オレの母親は戦争の前年に生まれている。
戦争になるととたんに祖母は食料不足やストレスなどの影響で母乳が出なくなってしまう。
そこで10人の兄弟がいた母は、兄貴や姉貴の捕ってきた蛙で生き延びることになる。
何匹かの蛙をぐつぐつ煮て、それを布に含ませて母乳代わりにしたという。
がりがりに痩せて、家族の誰もがすぐに死んでしまうと思っていたらしいが、蛙の汁には意外に栄養があったらしく、母は生き延びてその後オレを生むのだ。
戦争が始まるとすぐに祖父が兵隊にとられてしまったので、祖母は1人で11人の子供を抱えて戦火の中を逃げた。
母などはまだ赤ちゃんだったので、祖母は着物の懐に入れて走って逃げたという。
もしも落ちたらそれまでだとあきらめるつもりだったと祖母は笑っていた。
兵隊にとられる前に祖父が裏山に作った壕があったらしく、家族はいつもここに非難した。
入り口なども木に隠れるようになっていてその壕の出来は素晴らしかったというが、戦火が激しくなってくるとその壕は隣家のN家に奪われてしまう。
女と子供だけの家庭であるから隣家のN家は戦争の最初の頃はなにかと世話を焼いてくれたらしいが、彼等の壕はおんぼろで、いつの間にか交換することにされてしまったのだ。
今もって奴等は許せん、と叔母さんは言っていた。
祖父の姉は緑内障で盲目だった。
その頃、彼女は祖父の家に住んでいた。
彼女は自分が足手まといになるといけないと言って家族が非難する時にも一人家に残ったのだそうだ。
祖母にしたって11人の子供を連れて、彼女をおぶって逃げることはできなかった。
戦火が激しくなってくるともう家に帰ることができなくなる。
一週間に一度くらいのペースで様子を見に家に帰るのは叔母さんの仕事だった。
叔母さんがわずかの食料を持って帰ると、屋根は砲弾で砕け、おそらく彼女が恐怖のあまりにしたのであろうひっかき傷で畳はすべてはがれていたという。
しばらく経って、彼女は庭先でうつぶせになって死んでいたそうだ。
昼の間は壕の中でじっとしている。
そして夜になると村に行き、畑を掘り返して芋などを調達してくる。
照明弾がパーっと光るとあぜ道にふせる。
ところどころには死体が転がっている。
時には必死で逃げる際、その死体を踏みつけてしまう。
そうやって母の一家は戦争を生き延びた。
同じ沖縄でも南部地区は激戦区で、かなりの民間人が死んでいるが、母の一家の本部地区ではそんなに厳しくはなく、一家の誰一人として戦争で失うことはなかった。
ある日壕が米兵に見つかったことがあったという。
米兵は一人でやって来て、民間人、しかも女子供ばかりの壕だと知るとあわれに思ったのか、腰の袋から麦チョコとバターをくれて去っていったのだそうだ。
米兵は女を犯し、子供でも容赦なく殺すと教えられていたから皆恐怖したらしいが、祖母は置いていったものが食料だと分かるととても喜んだ。
麦チョコは食べるととても美味しかったから毎日一粒づつ、皆で分けて食べた。
しかし問題はバターである。
その頃の沖縄人はバターなど見たことも聞いたこともなかったのだ。
悩んだあげく祖母はこれを大きな鍋でお湯に溶かし、スープとして飲むことにした。
変な味だとも思ったそうだが、きっと栄養のあるものに違いないと一家ですべて飲み干した。
翌日からしばらく一家の者は皆ひどい下痢に悩まされたそうだ。
壕のそばにあったトイレ用のなんとかいう柔らかい葉っぱはその何日かでハゲになってしまったという。
おそらく戦時中の脂肪分とは縁のない内蔵に、バターの油分は強烈だったのだろう。
叔母さんは今でもこの話を話す時大いに笑う。
そりゃ、バターはどう食べるか悩むよな。
戦争が終わり、一家は捕虜のキャンプに行く。
心配なのは祖父の行方である。
配給の食物を食べながらいつも祖父の話をしたという。
兵隊として米兵と戦い死んだのかもしれない。
このまま一生お父さんには会えないかもしれない。
平和になった途端、思い出されるのは祖父の姿である。
叔母さんも毎日祖父を思い出して泣いたという。
そんなある日、ある人が祖父を名護のキャンプで見かけたという。
祖母はオレの母や幼い子供の面倒を見なければならなかったから、兄弟の中で一番大きかった叔母さんと叔父さんが一家を代表して名護のキャンプまで行くことになった。
徒歩で行くよりなかったから2日がかりの大旅行である。
叔父さんも叔母さんも家族を失った大勢の人を見ていた。
腕や足を失った兵隊もたくさんいた。
父親は生きていたとしても大怪我をしてるかもしれない。
もしかするとそもそも父親を名護で見たというのも人違いなのかもしれない。
暗い旅行だったという。
キャンプ地にたどり着いた叔母さんと叔父さんはフェンス越しに中の人に訊ねる。
私達は父親を探しています。
今帰仁村仲宗根出身の大仲村梁喜徳(うふなかんだかりきとく)を知りませんか。
するとある人が教えてくれる。
ああ、その人なら奥の方にいるよ。中に入っておいで。
そして叔父さんと叔母さんは祖父と半年ぶりに再会するのだ。
そこには変わり果てた祖父の姿があった。
戦前からは見る影もない。
祖父は半年前には生やしていなかった立派な口ひげをたくわえて、肌つやも良くでっぷり太ってにこやかに叔父さんと叔母さんを迎えたという。
なんじゃそりゃ。
戦争が始まって祖父はすぐに米軍の捕虜となったそうだ。
その頃の沖縄人には珍しく読み書きそろばんができたので、祖父はキャンプの中で待遇の良い仕事を得ることができた。
皆に食料を配給する仕事である。
一家が戦火の中を逃げまどい、がりがりに痩せていく中、祖父は米兵の配給の食事ですっかり太ってしまっていた。
叔父さんと叔母さんに缶詰やらビスケットやらを持ちきれないほどたくさん持たせて、祖父はいずれすぐに帰るからと二人を近くまで送ったのだそうだ。
オレが大きくなってからも正月などで一家が集まるとよくこの話になった。
皆楽しそうだった。
戦時中にはとんでもない悲惨な話がどこにでも転がっていた。
しかし生き延びた者は皆、戦時下をも生活していたからこそ生きたのである。
どんな状況でも生きるとは生活することだ。
そして生活するとは社会とは関係のない、どこかしらもの悲しく滑稽な人間性の悲喜こもごもなのである。
目の前で両親の頭が吹き飛ぶのを見た少女を想って胸を痛めるのも人間性なら、太った親父を見て笑うのも人間性だ。
戦争を単純に考えてはいけない。
2001 11/27
ヨシヤがいる。
今日はスタジオでリハーサルだった。
その後皆で飲みに行った。
イエー。
では明日。
2001 11/28
風邪悪化。
2001 11/29
短歌
新宿駅では横になりおやすみとつぶやくホームレスを見たよ
誰かがオレの強さにあこがれる。
誰かがオレに会って勇気をもらう。
ベイビー、オレといるとしあわせになるだろう。
ベイビー、オレといるとなにかになれる気がするだろう。
ベイビー、オレといるとなにかになれた気がするだろう。
ベイビー、だけどよく考えてくれ。
結局のところ、君は一人で歩く以外にほかはないんだ。
もうちょっと意地をはりな。
スターと付き合うのなら、せめてアイドル面を下げておいで。
元気かい。
オレはあいかわらず元気だぜ。
オレにむかってそう言えたなら、
ベイビー、もっと素敵ななにかが始まるはずさ。
自立するんだ。
頼るのじゃなく。
オレに負けないでくれ。
負けてたまるかとまっすぐむいた君の目をオレは見たい。
ベイビー、腹をくくるんだ。
7年前のあの日から、オレはそうしてきたぜ。
弱音を吐いたのはただの一度きり。
ただの一度きり。
自立するんだ。
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