徒然またよし日記・11月前半
なんか良くは分からないんだけど、
この日記才人というやつのランキングに参加してみました。
ランキングが上がれば上がるほどさらにお客が増えるというかんじの雰囲気です。
オレを助けると思って登録してみて下さい。
こういう地道な努力によってオレのライブは赤字から脱出できるのです。
きっと。
2001 11/10
昨日のライブは楽しかった。
朝まで酒を飲んで、今日は昼まで寝ていた。
沖縄でのライブに向けて、いろんな人と連絡を取る。
1月5日の土曜日に、国際通りのパロディーでライブをすることに決定。
早速予約を入れる。
今のところ対バンは「CRAZY HOT GANG」と「牙」がほぼ決定。
待ってろ沖縄。
沖縄在住の皆さん、ぜひお友達を誘って見に来てください。
こんなチャンスはまたとありません。
夜中になったらたぶん大セッション大会になるので、おそらくそれも見物です。
オレが高校生の頃やっていた伝説のバンド「ハリケーンズ」が一夜だけよみがえるかもしれません。
今度バカンスに加入する予定のナオキとも連絡をとる。
来年の春くらいには一緒にライブができるハズ。
ころがれ。
もっともっところがるんだバカンス。
2001 11/11
「沖縄の米軍基地を沖縄にかえせ。」という言葉を、実際にリアリティーを持った叫びとして叫ぶには、オレにとって沖縄で過ごした日々は致命的なほどに平安だった。
しかしおそらく最も戦争を忌み嫌う民族の土地を、戦争の為に使うなどというのは、これっぽっちも笑えない皮肉だ。
オレは沖縄に生まれ育ち、そこで世界のどこの若者も同じように送るようなありきたりの思春期を、全くありきたりでないような全力で過ごした。
愚かにも社会に順応する前に社会を理解しようと試みたのだ。
その試みは今の今まで続き、オレは決して終わらない思春期を、わざと勝手に今日もたそがれている。
沖縄はオレにとって故郷だが、オレにとって故郷は思春期というもののシンボルであり、そして思春期というものはおそらく「政治」から一番遠い場所にある。
オレは心情的には社会の一員ですらない、いつまでも思春期の旅人であり、よそものであり、詩人であると勝手に思っている。
だからどこかの歴史家が言う沖縄の歴史(学校で教える歴史は政治の一形態でしかない)や、どこかのジャーナリストがよく言う日本の国際政治の犠牲となった沖縄については、オレにとっての故郷である沖縄とは違った、オレにはあまり関係のないただの物語くらいに思っている。
しかしそのただの物語を、オレはとてもよく知っている。
いろんな人から伝え聞いたそのただの物語はオレの胸を打ったし、その迫力はオレの心を揺さぶった。
その事実だけはオレのリアルな歴史なのだ。
オレには伝える義務はない。
オレには伝える資格さえないかもしれない。
けれども伝えてみようと思う。
前置きが長かったが許してくれ。
誰かは知りたいかもしれない。
オレの知っている話を話したいと思う。
ただの物語として聞いてくれ。
沖縄には原始人の化石も出土しているし、三国時代があったり、いろいろと長い歴史があるのだが、とりあえず話は日本で言うところの戦国時代から始めよう。
まず、豊臣秀吉が薩摩藩(今の鹿児島)と密約を交わすところから話は始まる。
あくまでも密約なので、これについては歴史家の中でもなかったとする人もいたりしてちょっと曖昧なのだが、いちおう歴史としてはそういうことになっている。
豊臣秀吉が自分の天下取りに功績のあった薩摩藩に褒美は何がいいと聞いた際、薩摩は琉球をくれと言ったというのだ。
なんだ、それは、聞いたこともないぞ、南の島だと、なんだ、欲のない奴め。
秀吉はそう言ってそばにあった扇子にさらさらと琉球をやると書いた。
扇子に、というところが憎らしい。
正式な文書ですらなかったのが、後の薩摩の琉球侵略の家康への口実となるのだ。
天下を取った秀吉にしてみれば、大陸よりこっち側の島々は全部自分のものだと思っている。
簡単な気持ちでやると言ったのだろう。
だがしかしその頃沖縄は琉球王国という独立国であり、中国の朝貢国(注1)であった。
(注1)
中国という国名を「世界の真ん中の国」という意味だと理解している人がいるとしたらそれは間違いである。
王ならどこの国の王だって自分の国が世界の真ん中だと思っている。
中華という考え方には、この世に中国以外の国はないのだ。
中国以外の国は国でなく、ただの辺境地帯の蛮族でしかない。
この世にただ一人の(中国の)天子に統べられてこそ国は国として成り立つのだ。
その昔、中国は間違いなく世界一栄えた強国であったから、アジア圏のいろんな国は中国に贈り物を持って国として認めてもらいに行った。
中国に認められることは国家にとってのステータスであり、廻りの国々への素晴らしいけん制となった。
贈り物を持って国として認めてもらいに行くことを「朝貢する」と言い、それで晴れて国として認められた国を朝貢国と言う。
大昔の日本でもわざわざ舟に乗って朝貢した国はあった。
奴国王の金印というのは日本にあった奴国という国が中国の朝貢国であったまぎれもない証拠であり、魏志倭人伝の卑弥呼も中国の魏(三国志好きな人なら誰でも知ってる。中国の三国時代、日本は卑弥呼の時代だったのだ。)に朝貢している。
その頃琉球王国はその地理的な利点を生かし中国や日本、東南アジア諸国との貿易でけっこう儲けていた。
薩摩はそれに目をつけていた。
秀吉が生きていた頃は朝鮮出兵などで琉球どころではなかったのだろう。
江戸時代の始め頃、薩摩は件の扇子を切り札に家康の許可を貰い、満を持して琉球を侵略する。
そして日本中が鎖国だった中、琉球を名目上独立国としたまま薩摩だけが琉球を通じて独自に国際貿易を始める。
正確に言えば琉球に薩摩に収めるべき税を徹底的にかけたのだ。
砂糖や甘蔗(サツマイモ。これは本当は中国の芋で、薩摩が沖縄から持ち帰った後、日本に広まった。)、異国の珍しい品々、香辛料、米、織物等が税として収められた。
明治維新の頃、薩摩藩が外様であるにも関わらず強力だったのは、多分に琉球人からしぼりとった税のおかげだっただろう。
その取り立てはすさまじいものだったらしく、人頭税(注2)が払えない離島の家族は自分の子供を殺したと言う。
(注2)
薩摩からの重税を払うため、琉球政府はさらなる弱者である離島の島民に「人頭税」という特殊な税をかけた。
普通、税は財産や利益にかかるものだが、人頭税は一人あたまいくら、という税なのだ。
財産もなく、何の利益もあげていない者でも一定の税を払わなければならない。
その頃は離島全体がとても悲惨な状態にあり、八重山や石垣では自殺する者が絶えなかったという。
税が重かったとは言っても王府の役人はきちんとした給料を貰っていたのだ。
いつの世もしわ寄せは弱者にくる。
ちょっと長くなった。
続きは明日。
なんだか現代の話ができるのは当分先になりそうだ。
2001 11/12
飢饉の時には蘇鉄(そてつ。南国に生えるパイナップルみたいな木。毒があるが、念入りにあくぬきをすれば木の幹を食える。食ったことはないがとてもまずいらしい。ほとんど唯一、まずすぎるがゆえに税の対象にならなかったので、沖縄では非常用の食物として、いろんなところに植えられた。)を食ったりして沖縄の民衆は飢えをしのいだ。
その頃の悲惨さを伝える民話は今でも島中いたるところに残っている。
侵略の際、琉球王府も何もせずに手をこまねいていたわけではない。
侵略されて間もない頃は王府も薩摩を追い出すために、中国を頼ったりしていろいろと手を尽くした。
実際、長い太平の世が続いた琉球にはろくな武力がなく(その頃の琉球は武力、つまりサムライの支配する社会ではなく、貴族の支配する世の中であった。その頃の琉球に住むすべての人々は、戦争など見たことも聞いたこともなかったのだ。)、まだ戦国の記憶の残る日本のサムライ達にはとうてい太刀打ちできなかったから(戦国時代、世界中を眺めても一番戦争をやっていたのは日本だった。その頃世界で一番鉄砲を保有していたのは日本であった。兵法や武術なども発達しており、軍事力は間違いなく世界一だったと言われている。)、中国に頼るより他になかったのである。
琉球は広い意味で中国の一地方であるのだから、中国は大国の威信にかけてその日本の挑戦をしりぞけてくれるはずだったのだ。
しかし中国は内紛や北方の民との戦で国力が疲弊しきっており、わざわざ数ある朝貢国の中のひとつであるさして重要でない琉球まで遠征して、日本という小国のさらに小さな部族である薩摩を追い出すことなどはできなかった。
これはオレの勝手な憶測だが、朝鮮出兵の際、日本の軍隊の強力さを知ったのも理由のひとつなのかもしれない。
日本は朝鮮出兵の際、内部分裂の末、補給路を断たれ負けたが、肉弾戦にはめっぽう強かったらしい。
沖縄は中国を信じて裏切られた。
以降長らく薩摩の支配が続くことになる。
(ちょっと寄り道)
薩摩の支配下の沖縄は刀などの武器をすべて薩摩に奪われていた。
そこで沖縄の住民は少しでも薩摩に対抗するため、そしておそらく自らのプライドのため、主に素手で戦うある武術を生み出す。
カラテである。
カラテは中国の「唐」からやってきた拳法と、古くから琉球にあった「手(ティー)」 (とても踊りに近い武術らしい)という格闘技を合わせて考案され、「唐手(カラテ)」として沖縄で発祥する。
その頃の唐手は武器の代わりに鎌や鍬、棒やヌンチャク、トンファーなどを使ったものもあったらしいが、今では琉球古武術として残るのみで、多くの技術が失われてしまったという。
それは後に日本に渡り(加納治五郎の講道館柔道や柔術などとのカラミもとても面白い話なのだがまた今度。しかし昔の漫画や映画ではいつも柔道家が主役で、空手家が悪役というのもなんだかなというかんじだ。)「空手(カラテ)」となって、その後世界中に広まり、世界の格闘技に深い影響を与えることとなる。
今日は酒を飲んできたのでここまで。
明日あたりようやく明治から昭和くらいの話ができそうだな。
2001 11/13
薩摩の琉球侵略は1609年のことである。
ここまでの文章では薩摩の侵略後、琉球は不幸のどん底にいたような印象を受けるかもしれない。
けれども厳しい暮らしの中でも琉球は明るくほがらかだった。
左翼系の人はすぐに沖縄の不幸ばかりを強調したがるが、それは逆に沖縄の尊厳を傷つけることになるとオレは思う。
オレは親戚のおばさんから、おじいさんやおばあさんから、戦時中の悲惨な体験をたくさん聞かされたが、それと同時に、どこの教科書や歴史書にも載っていない戦時中の面白い笑い話もたくさん聞いた。
どんなに悲惨な状況でも、探せばどこかに笑顔があるのがきっと沖縄なのだと思う。
オレはこの文章で日本を批判したいのではない。
アメリカを批判したいのではない。
薩摩を批判したいのではない。
オレは新しい沖縄人だから憤ったりしやしない。
この長い文の末尾に、沖縄をあるものに比喩したいだけなのだ。
皆に「沖縄」とどう付き合えばいいのか、少しばかりのヒントを示したいだけなのだ。
廃藩置県(明治4年・1871年)の後、1879年(明治12年)に琉球処分(琉球王国の明治政府への強制的組み込み)が行われる60年ほど前、1816年にバジル・ホールという名の英国海軍士官が英鑑ライアラ号の艦長として沖縄に来ている。
バジル・ホールは6週間沖縄に滞在した。
そしてその帰航途中、バジルはある有名人と会見することになった。
あの有名な、不可能という文字のない欠陥辞書の持ち主、ナポレオン・ポナパルトだ。
バジル・ホールはセントヘレナ島でナポレオンと会見する。
バジル・ホールの航海記にはその会見の模様がこう載っている。
「ナポレオン・ボナパルトの知識は広く、深く、彼の知らない話を持ち出すということは不可能に近い業だった。・・・そんなナポレオンでも琉球の人々の話になると、さすがにびっくりしたものだ。私の語る大琉球の不思議な話にまごつき、説明できずにいるナポレオンの姿に、私は密かに満足を覚えたものだ。
大琉球の人々は武器を持たないという話にナポレオンはなによりも仰天した。彼は叫んだ。『武器を持たぬ!大砲も持たないというのか?小銃ぐらいはどうだ?』
マスッケット銃さえ持っていないのです。と私は答えた。『それでは槍はどうだ?弓矢もないのか?』どれもありません。
『何ということか』ナポレオンは拳を握りしめ、声を張り上げた。『武器を持たずに、一体どう戦争をするというのだ?』
我々の知る限り、彼の人々は戦争をしたことがないばかりか、外敵も内敵も知らず、平和に暮らしている、と答えるほかなかった。
『戦争を知らないと?』見下げ果てた、信じられんという表情を浮かべて、ナポレオンは叫んだ。あたかも太陽の輝く世界に戦争を知らない人々が存在することが狂気の沙汰とでもいうように。
(『青い目が見た「大琉球」』(ニライ社)「バジル・ホール航海記」より)
バジル・ホールは薩摩の琉球侵略について知らなかったのだろうか。
オレには分からない。
けれど温和な琉球人に彼が驚く姿は容易に想像できる。
どこかの誰かにはただの「いいかげん」にしか見えないような底抜けのやさしさと純朴さを持った沖縄人をオレはたくさん知っている。
オレは沖縄を離れてから、人生を謳歌することを認めず、善意を信じない人間の誤解や偏見に傷つけられた多くの無垢な魂を見た。
琉球時代の沖縄には、人を疑うことを知らない多くの人間が誰も見たことのないような「なれあい」の中を生きていたのだとオレは思う。
多少はかしこくなったかもしれないが、今でも沖縄はお人好しだらけのしあわせな、あるいは愚かな、おめでたい島なのだ。
それは誰かが言った天国にとてもよく似ている。
生活の貧しさと、ある「かなしみ」を除いては。
バジル・ホールと一緒に沖縄に滞在した英国人医師マクロードがこんなことを言っている。
琉球人は友好的で信頼のおける民族だ。しかも、こよなく幸せな民族だ。島民の多くは、天が与えてくれたその才能と自ら養った知識の片鱗(ヘんりん)を示してくれた。海に囲まれた島国であることを考えると、いよいよ驚きだ。絶海の孤島に閉じ込められると、どんな民族でも偏狭で卑屈になるものだ。ところが、わが友の琉球民族にはこの理屈は全くあてはまらないのだ。
人頭税の離島でだって、人々は毎夜海岸で歌を歌い、踊り、酒を飲み、恋をしたはずだ。
さて、いよいよそれでも一応の独立国である琉球王国が日本の「沖縄県」になる話だ。
中国とも薩摩ともなんとか仲良くやっていきたい心優しいがしかし甘ちゃんの琉球は、武力を持った他国の思惑にこれからどんどん翻弄されていくこととなる。
2001 11/14
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカの東インド艦隊指令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀にその勇姿を現わした。
その後日本は激動の幕末を迎えることとなる。
幕末の日本の話はいろいろな小説や映画にもなっているからオレがわざわざここに書く必要もあるまい。
しかし幕府や朝廷がどうだったかは皆知っていても、アメリカの思惑の方はあまり知られていない。
実はアメリカはペリーの前にも開国を求める使節を日本に派遣している。
アメリカはその頃盛んに行われていた太平洋での捕鯨のための補給基地がどうしても欲しかったのだ(注3)。
しかしその時の使節は高圧的な態度など取らず、礼儀正しくやったがためやんわりと日本に開国を断られた。
そこでペリーの出番となったわけだ。
ペリーはなんとしても日本を開国させねばならなかったから、当時西欧諸国に出回っていた日本に関する書物を徹底的に勉強した。
そして出航に先立ちペリーは3年前長崎にアメリカ漁船の漂流者を受け取りに行った事のあるグリーン中佐に会いに行く。
このときにグリーン中佐は日本人の性向や慣習についていろいろと予備知識を提供する。
そして日本の役人には高圧的な態度でのぞむことを強く勧める。
彼らは相手が弱いと見るとつけあがり強いと見ると卑屈になるというのがグリーンの主張であった。
江戸から遠い長崎での交渉ごとは避け、できれば将軍の都府に近い港湾に艦隊を進め脅威を与えればすんなり開国するはずだと。
ペリーはまさにその通りのことを実行したのだ。
(注3)
蒸気機関による産業革命がおこり、西欧では特に工業用の油が不足していた。
アメリカは太平洋で鯨を捕りまくった。
そして油だけをしぼり、身は食わずにすべて捨てていた。
アメリカは鯨が絶滅の危機に瀕しているから日本は捕鯨をやめるべきだと言うが、鯨が絶滅しそうになっているのは自分達が19世紀のあまりに短期間に、あまりにたくさんの鯨を捕りすぎたことも、大きな原因のひとつであることを認めるべきだ。
と、少し話がずれたが、あの有名なジョン万次郎も捕鯨船に拾われているし、その頃太平洋にはかなりの数のアメリカの捕鯨船がいたらしい。
極東の補給基地はアメリカにとってどうしても必要だったのだ。
捕鯨をやめた今でもそれは変わらない。
太平洋に軍を展開するなら、日本の港が、空港が必要なのだ。
日本とアメリカは太平洋を挟んだ隣近所なのである。
ペリーの浦賀へのルートは、太平洋のセントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを迂回して、セイロン、シンガポール、香港、上海、そして最後に琉球に寄港する、というものだった。
もちろん琉球には薪や水、食料の補給のために立ち寄ったのだが、メキシコ戦争の英雄であるペリーには別の思惑もあったらしい。
ペリーはアフリカ西岸のマディラ島から海軍長官に当てた書簡に「日本政府がもしわがほうの要求を受け入れず、不幸にして武力と流血を伴った場合は、日本を攻撃する足場としてかの国の南方諸島に1,2の根拠地を占領したい」と書いており、琉球寄港は下見の意味も含まれていたのだ。
沖縄は日本と東南アジアと中国、台湾などを同時に睨むことのできるその素晴らしい立地条件により、大昔のある短い時期には一大貿易国家としていい目をみることもできたが、それ以降はそのせいで皆に狙われることになってしまった。
一族代々住んでいたのがたまたま銀座だったというだけで、地上げ屋に狙われつづける老夫婦みたいだ。
しかしペリーもやはりバジル・ホールと同じように琉球には魅せられたらしい。
ペリーも後に琉球を世界一幸せで平和な島だと語っている。
琉球は貿易国家であったから語学に堪能な者も多く、英語を喋る者もいて(注4)それにもペリーは大変驚いたという。
(注4)
板良敷朝忠(いたらしきちょうちゅう)
牧志朝忠(板良敷朝忠1818〜1862)は、ペリーが琉球に来たときに通訳を務め、しかも英語で通訳をしてペリーたちを驚かせたらしい。
英語は安仁屋政輔に学び、異国通事(通訳)となる。
薩摩とくに島津斉彬に語学力を買われて、異例の出世を果たすが、斉彬の死後、後盾を失ったせいか牧志・恩河疑獄に巻き込まれて投獄の憂き目に遭う。
その後薩摩に請われて、薩摩に送られるも、その途中で入水自殺をする。
自殺の理由はいまだに謎につつまれており、他殺であったとする歴史家もいる。
さて、もうすぐで廃藩置県。
琉球処分。
自由民権運動の話が終わったら治安維持法、皇国教育、そして沖縄戦の話。
ほんで米軍統治、ベトナム戦争、祖国復帰運動ときて現代。
うわー。
話長ぇー。
2001 11/15
夜の街をぶらぶらと歩いたよ。
東京は雨と曇りがつづいている。
ちょっとしんどいので今日は日記休み。
2001 11/16
酔っ払っているよ。
歴史のつづきを書こうか書くまいか悩んでいる。
正直に白状してしまえば面倒くさいのだ。
あのことかあのことかあのこに電話をして、遊んでくれないか聞いたら、「とっとと寝ろ」と言われた。
なんだよばかやろう。
オレはスターなんだからな、とビールを飲みながら一人で海まで出かけた。
ほめられているのが好きだ。
けれども沈黙しているのも好きだ。
孤独が好きなのかどうかはいまいちよくわからない。
孤独を楽しむのはとても上手なのだけど。
2001 11/17
廃藩置県(明治4年・1871年)の後、1879年(明治12年)に琉球処分(琉球王国の明治政府への強制的組み込み)が行われた。
それまで名目上は琉球王国という独立国だった沖縄は、この琉球処分により日本の一地方である「沖縄県」となった。
国王が平民となり、士族も身分を剥奪され、中央政府からやってきた知事が沖縄を統治した。
県庁の職員に沖縄の者はほとんどいなく、彼等は沖縄人を見下していたと言われる。
沖縄人には参政権さえなかった。
その頃ある王府の高官が中国の柴禁城に行き切腹をし、「沖縄を見捨てないでくれ」と涙ながらに訴えたという話もあるが、歴史的な証拠には乏しい。
しかし沖縄に暮らしたこともない中央政府の官僚が、日本でのやり方そのままに琉球を統治しようとしたのだから、様々な反発があったであろうことは想像にかたくない。
天皇を崇拝せず、自分達が大和民族であるという意識も皆無である(当たり前だが)沖縄人を官僚達は差別し、あくまでも高圧的に統治しようとした。(注5)
(注5)
沖縄の自由民権運動の父、謝花昇(じゃばなのぼる)は最後の琉球王、尚泰の治政中1865年、東風平(こちんだ)の貧しい農家に生まれたとされている。
彼は才能を見いだされ苦学の末、廃藩置県の11年後、最初の県費留学生として東京に派遣された。
5人の留学生中、平民出身は謝花だけだったという。
謝花は東京農科大学(現東京大学農学部)を卒業し、沖縄初の農学士となり、高等官の身分で県技師として沖縄県庁に勤務した。
その翌年、悪名高き奈良原繁県知事(鹿児島県人)が赴任して来る。
沖縄の宗教も文化も無視し、民衆の意向を全く尊重しない奈良原と、謝花は何度も対立する。
特に杣山(そまやま)開墾払い下げ問題では農民層の立場に立つ謝花は、国の権益を守ろうとする奈良原と激しく対立したと言われる。
そこで奈良原は、邪魔になった謝花昇を開墾主任から解任し、県政を思いのままにした。
以後、謝花の生涯は奈良原知事との闘争に費やされる。
謝花は奈良原知事罷免を要請し、東京で精力的に運動する。
親交の深かった自由民権運動の板垣退助を通じ、時の大隈・板垣内閣の内諾を得たとも言われているが、これは憲政党内閣の崩壊で失敗に終わる。
しかし謝花は、これにひるまず沖縄に戻り同志と共に沖縄倶楽部を結成する。
そして機関誌「沖縄時論」を発刊して参政権、県政革新を主張、奈良原一派の暴政を追及した。
これに対し奈良原知事は、脅迫や妨害を加え生命さえも狙い始める。
(この頃謝花は知事が雇ったという暴漢に、日本刀で襲撃までされている。)
しかし知事だけでなく、沖縄の旧支配層まで批判の矛先を向けた謝花の運動は、次第に孤立化していく。
同志も奈良原の脅迫や懐柔により離散し、大衆は動かず、資金も枯渇し、運動は衰退する。
財産も使い果たし、妨害のため県内での再就職もかなわず、謝花は県外に就職しようと山口県の任地に赴任する。
そしてその途中の神戸駅構内で、突然発狂する。
27歳だったという。
今のオレと同じ歳だ。
列車の窓から見える沖縄とはまるで違う本土の景色を、彼はどんな気持ちで眺めていたのだろうか。
発狂から16年後の1908年、謝花昇は43歳で寂しい死を迎える。
沖縄で実際に衆議院選挙で議員を選出したのは、 謝花昇の死の3年後、本土より22年も遅れてのことだった。
2001 11/18
スターらしくない反省をひとつ。
今日もかわいこちゃんと飲んでいた。
けれどもオレは一人で帰った。
口説こうかとも思ったがやめた。
オレはいつだって愛が欲しいのだが、愛にはいつだって責任がついてくる。
少しでも相手を傷つける可能性があるのなら、沈黙することだ。
オレのわがままで傷つく女を見るのはもういやだ。
オレの心の中の誰かが「行け。行くんだキワム。」と叫んだが、オレは千鳥足を抱えて高円寺の我が家へ帰った。
自分の孤独に他人を巻き込んではいけない。
恋愛などというみっともないもので傷つけたり傷ついたりするのはもうまっぴらなのだ。
いいお友達でいましょうと言うたび、
オレも血の涙を流している。
もてるってのはつらいな。
スター暮らしはヤクザな稼業だ。
なんちって。
2001 11/19
「県民は一般に軍事思想が幼稚で、国家意識も薄弱なので、徴兵を忌避ようという考えが強い」
「沖縄警部隊区徴募概況」1910年(明治43年)
明治政府は「神社神道」を「国家の宗教」とし国民の精神的統制を図ろうとした。
国家権力による国民の心の管理・統制は、大正14(1925年)4月22日「治安維持法」の公布によりいっそう強化された。
明治頃までは沖縄人には自分達が「大和民族」であるという意識はまだあまりなかったらしいが、大正あたりから少しずつ様子が変わり始める。
日琉同祖論というのが流行り始め、沖縄人も日本人も同じ祖先を持つ兄弟なのだ、という風潮になってくる。
琉球王の祖先は平家に敗れて落ち延びた源義経の叔父さんであるという伝説が作られたのもこの頃である。(もちろんこれはとんでもない作り話である。ジンギスカンが源義経であったとする伝説もこの頃に作られている。それらの伝説は日本人の自尊心をくすぐり、侵略を是とする風潮の遠からぬ原因ともなった。)
その背景には徹底した皇国教育と日本への同化政策があった。
小学校では「方言札」というものが作られ、方言を喋った者は罰を与えられた。
帝国主義が日本を覆うと共に、沖縄の者も天皇を崇拝するようになった。
左翼系の歴史観では沖縄は嫌々戦争に巻き込まれた可哀想な犠牲者のように語られるが、事実は全くの逆である。
沖縄は天皇を愛し、日本のために一途に戦った。
本土の者の沖縄への差別は根強いものがあった。
沖縄人は「おまえらは日本人ではない。」と言われるのを最もくやしがった。
沖縄人にとって、天皇への愛が膨らむということはまたコンプレックスも肥大するということであった。
日本を誇れば誇るほど、自らの出自を忌々しく思ったのである。
昔からの日本人でないがゆえに、最も大和民族に憧れ、真の大和民族たろうとしたのは沖縄人であった。
現代に生きる沖縄人は皆自分達が沖縄人であることを誇ろうと必死に独自の文化の発掘にいそしんでいるが、戦前には全く逆のことが行われた。
日本との共通項ばかりを追い求め、沖縄独自の文化を恥じ、隠蔽しようとした。
そのことを危惧し、沖縄の文化を後世に伝えようとした者はごくわずかの学者のみであった。
オレは沖縄を孤児に例えたい。
中国という最初の、信じていた親に裏切られた沖縄という南洋の孤児は、その次の日本という親にいじめられながらもいつしか心を開き、新しい親の愛を得ようと必死に頑張っていた。
もう裏切られるのはまっぴらだった。
そして太平洋戦争が勃発するのである。
沖縄は証明しようとした。
他のどの息子とも同じようにやれることを。
親を喜ばせようと。
認められようと。
ここからである。
沖縄の片思いの旅が始まるのは。
同じ日本人として、バカにされず、対等に仲間として扱ってもらうために、沖縄は課せられた仕事を一途に一途にはたそうと努力するのだ。
2001 11/20
今日は夜中まで残業だった。
Tさんと一緒にラーメンを食った。
1/5にはTさんも一緒に沖縄に帰る。
Tさんとは7月の帰省も一緒だった。
Tさんとは毎日のように沖縄の話をする。
オレが最も音楽的な影響を受けたのは、中学、高校と一緒にバンドをやっていたひっちゃんだ。
ひっちゃんが最も影響を受けたのは自分の兄であるノリさんで、ノリさんが最も影響を受けたのはたぶんTさんだ。
ラブシックラバーズがなければ、オレ達はバンドをやっていなかったかもしれない。
今のバイト先でTさんに会ったのは本当に偶然だった。
オレもびっくりしたが、Tさんも自分達が託したバトンを受け継いだ人間にそんなところで会うなんてびっくりだっただろう。
沖縄の高良レコードにあったルースターズのレコードは、たぶんそのすべてをオレ達に買い占められた。
小さな島で、オレ達はお互いに顔も知らず、けれども同じロックスターにばっちりいかれていたのだ。
2001 11/23
2日ばかり飲み歩いていた。
ついさっき部屋に帰った。
とても久しぶりに腹が立った。
根気強くやることが大切だ。
根気強くやることが大切だ。
根気強くやることが大切だ。
折れない心で。
とにかくあそこまで行こう。
2001 11/23
やっぱ風邪だわ。
今日は一日中横になっていた。
梅干しとかつおぶしとにんにくひとかけすったやつとしょうがを少しすったやつと味噌をお湯で溶かして飲んだ。
少し楽になった。
これは「カチューユー」といって、沖縄では普通に飲まれている。
風邪の時、母ちゃんがいつも作ってくれたっけ。
明日もいろいろと予定があったのだが、すべてキャンセルして家で寝ていようと思う。
過去の日記
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