徒然またよし日記・4月前半
なんか良くは分からないんだけど、
この日記才人というやつのランキングに参加してみました。
ランキングが上がれば上がるほどさらにお客が増えるというかんじの雰囲気です。
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こういう地道な努力によってオレのライブは赤字から脱出できるのです。
きっと。
2001 4/2
勉強というのはもちろん専門化することも大事だが、拡散というか分散というか、横道にどんどんそれていくようなやり方が大切なのだと思う。
知識というのは色々な知識が複合的に結び合ってこそ初めて意味を持つ。
「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」などと言って鎌倉幕府成立の西暦をただおぼえておいたとしても、それが他の様々な知識との連絡がない、独立した知識だったとしたら、全く意味のないことだと思う。
例えば、仏教に興味のある人だったら、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」も、「ああ、するってえと一遍や親鸞や道元やらの時代にかぶってるな。」というかんじになっていって、武家の台頭と浄土思想、禅の上陸、みたいなテーマなんてのも自然と出てくるのじゃないか。
他の歴史と照らし合わせて楽しむのでないのなら、そんなもん全くおぼえる必要はない。
勉強というものは、寄り道や道草の中にある。
オレは優れた教育者とは子供達一人一人のちょっとしたひとつの興味から、無限に好奇心を刺激してやれるような人間のことを言うのだと思う。
空を見た時には、空の文学を、空の科学を、空の歴史を、空の歌を、子供達に聞かせてやる。
空にも色々な顔のあることを教えてやる。
どの問いがどの道につながっているのか、どんな問いが有り得るのか、教えてやる。
例えば「走れメロス」を読んで、メロスが時速何キロで走っていたのかおおよその値を計算してみたっていいじゃないか。
ひとつのテーマに様々な方法でアプローチする、というのは思考の基本だ。
受験などでは5教科全てをフォローしている人を選抜して、あとから専門的な勉強を教えてやる、というやり方になっているが、専門的な勉強の中から、必要な時に横道にそれて(つまり別の学科にいって)好奇心の裏付けの中から生きた知識を身につけてまた専門に戻っていく、というようなやり方もあっていいと思う。
読み書きそろばんをおぼえた時点で、それぞれが自分の興味のある専門分野に(基本的に無試験で)入っていって、その創造的な実技の中から、必要に応じて他のジャンルについて学ぶ、というような「寄り道式」の勉強の方がオレはきっとやってて楽しいと思うのだがどうだろう。
「オレはチャリンコが好きなのでチャリンコを作りたいです。」という子供がチャリンコを作るうち、その必要から力学を学び、たまたまそっちの方がもっと面白くなってしまって、しまいには天体物理学の権威になってしまったなんて話があったら、オレはものすごい素敵だと思う。
教育というのは知識を教えることよりも、その子の知的好奇心を刺激して、勉強することの楽しさを教えることの方がずっと大切なのだと思う。
近年、いろいろな人から「やりたいことがない」というようなセリフをしょっちゅう聞くのだが、それは「知りたいことがない」と言っているのとほとんど変わらないように聞こえる。
よっぽど勉強がつまらなかったんだろうな、と思う。
日本の教育制度は、少年の好奇心を枯渇させてしまうような、へんてこな教育制度なのかもしれない。
勉強を楽しんで、寄り道しながら生きればいいと思う。
人はそうやって創造力を身につけるのじゃないだろうか。
素晴らしい仕事を残すため以外に、人間はこの人生を何に使えばいいというのか。
その仕事はたったひとつの言葉だっていい。
オレは勉強くらい楽しい道草はないと思う。
2001 4/3
一週間ほど前の話である。
「そんなに照れ屋なのによくステージで歌ったりできるね。」
おっさんがオレに言った。
なるほどオレって照れ屋かもしんないな。
自分で言うのもなんだけど、オレは恥というものをよく知っている。
多少敏感すぎるところもあるかもしれない。
どっちかっていうとそうだな、オレは照れ屋だよな。
「いやー、マタヨシ君はシャイだよね、本当。なのにステージではあんなんなっちゃうんだもんね。」
おじさんはそう言ってしきりに感心している。
だからオレはこう言った。
「いや、照れ屋だから、ステージに立って歌でも歌ってなきゃ、恥ずかしくって人生やってらんないんだよ。きっと。」
照れ笑いを浮かべてビールを飲みながら、オレは「アイーン」の顔をした。
でなきゃ照れくさくてそんなセリフ言ってらんなかったからだ。
やっぱ照れ屋だわ、オレ。
2001 4/4
あなたにとって「〜」とは何ですか。
みたいな質問を最近テレビなどでよく聞く。
何かの名人上手をつかまえて、この質問をかましては、
「そうですね、私にとってマラソンは人生のすべてです。」
みたいな答えを引き出して、「なるほど。含蓄のあるお言葉。」みたいなかんじで司会者どもがあほみたいに喜んでいる。
この「〜にとって〜とは何か」みたいな言いまわしは、今から30年くらい前に吉本隆明の書いた「言語にとって美とは何か」という本のタイトルから来ているらしい。
これまた30年くらい前の、ある文学者の書いたエッセイに「最近吉本さんのせいで「〜にとって〜とは何か」みたいな言いまわしがはやっている。こういうもってまわった言い方をするとなんだか頭が良さそうに聞こえるからだろう。便利な言いまわしだが、なんでもかんでもこれに当てはめりゃいいと思っている奴がいるから困る。」というような内容のことが書いてあった。
30年前も今と大差ないらしい。
日本語は英語やフランス語など(別にドイツ語とかラテン語とかでもいいんだけど、英語とフランス語ならまだほんのちょびっと知っているので、引き合いに出してみました。)に比べて、どうも論理的でない、曖昧な表現を簡単に許してしまうようなところがある。
それは日本語の一種の魅力でもあるのだが、適切かつ正確な表現が要求されるような場面では、どうにも面倒くさいところがある。
例えばオレがこういう質問をする。
「政治は必要か、必要でないか。」
するとたいがいの人は「必要だ。」とか「必要でない。」とか言う。
「誰にとって?」とか「どういう場合?」とか聞き返してくる人はあまりいない。
日本人は、こんな大雑把な二元論でまとめてしまうことにも、大した抵抗を感じないのだ。
それは質問をし返すのは失礼だから、とかそういう日本人らしい奥ゆかしさも関係しているのだろうが、文法上の問題も大きいと思う。
英語だったらばすぐに「君の質問は補語を欠いている。不完全だ。」と指摘されると思う。
日本では曖昧な話もお互いになんとなーく補いあって雰囲気で押し切って、ちっとも理解できなくてもお互いに「分かったような気になって」曖昧に済ませてしまうようなところがある。
正確を期そうとすると失礼だと思われたり、反論するとケンカを売られたと思われたりする。
ああ面倒くさ。
オレは音楽をやっているので、もしかしたらいつの日か「あなたにとって音楽とは何ですか。」
などと言われることがあるかもしれない。
とても大切なことに関わる質問なのでオレとしては適切な表現で正確に答えたいと思う。
しかしこれ、あまりにも質問が曖昧すぎるのだ。
まず、この質問には、「あなたくらい音楽をやってきた人間にとっては、音楽の意味が普通の人と違うわよね。」という決めつけがある。
シェー。
「音楽」は「美」とかそういうものと違って、時と場合によって意味がころころ変わるようなものではない。
海に行ったら「音楽」は「ささかまぼこ」を指す言葉になって、時間帯によっては「リーゼント」を指す言葉になって、また地方によっては「がんばりやさん」を指す言葉になって、というふうにころころ意味が変わるようでは楽しいけれどすごい困るだろ。
「音楽」は誰にとっても「音楽」でなければ困る。
まあこの質問は音楽を別の物に例えてみろと言っているのだと考えることもできる。
「音楽はらっきょうみたいなもんです。むいてもむいてもまだ先がある。なんちゃって。」
みたいなかんじで。
しかしそれだと「あなたにとって」という言葉が邪魔である。
単なる比喩ならわざわざ「誰それにとって」というくくりをつけることはない。
音楽はある意味たしかにらっきょうみたいかもしれないが、オレにとっての音楽がすべてらっきょうだと思われるのはなんか嫌だ。
らっきょう嫌いだもの。
比喩を求めるのなら「あなたにとって」とは言うべきでない。
例えば「あなたの大掃除にとってボサノバは敵ですか味方ですか。」
みたいな聞き方なら上手く答えられると思うだが。
ずばり敵です。
もう27年近く日本人をやっているのに、いまだに日本語がマスターできないのは、それはオレの頭が悪いのではなく、日本語が悪いのだと思う。
とりあえず「あなたにとって音楽とは何ですか。」と聞かれたら、「僕にとっての音楽は料理人にとっての料理みたいなもんですね。」と、答えてんだか答えていないんだかよくわからないかんじでお茶をにごそうと思っている。
2001 4/5
ほんの少し肌寒い晴れた朝だった。
ポケットに手を突っ込んで、両肩を縮こまらせて、オレは歩道橋の上に立っていた。
目の前には大きな桜の木があって、どうかすると今にも手が届きそうなほどだった。
時折、散った桜の花びらが、肩や足元に降りかかった。
環状7号線の絶えることのないスモッグの薄霧は、その景色を夢で見たいつかの幻のように、白くぼやかしていた。
バイトの始まるまでは、まだ10分ばかりの余裕がある。
オレはぼんやりと桜を見つめて、いまさらのように、春の訪れを感じていた。
春という季節が誰の胸にも同じようにやってくればいいのに。
季節はいつも木や草や花や空や風にやってくる。
まるで遠い景色のように。
彼等は春の訪れを知っているのだろうか。
季節はそれ自身季節を生きる者にとっては、ただの幻のようなものでしかないのかもしれない。
季節を意識する時、人はいつも感傷の中にいる。
季節はこうして思い出の中に、遠い景色の向こうに垣間見える、過ぎ去った日々の夢の残滓のようなものに過ぎないのかもしれない。
口や鼻から煙を吹き出しながら、オレは自分も桜になれたらなと思った。
オレは春ではなく、オレだったから、春や桜がうらやましかったのかもしれない。
タバコの吸殻をポケットに突っ込むと、オレは急ぎ足で会社へ向かった。
2001 4/7
友人の花見に誘われたので井の頭公園まで行ってきた。
日本酒飲みすぎて頭痛い。
昨日は昨日で朝まで例のくされバーで飲んでいた。
明日は明日でまた井の頭公園で花見だ。
なんか酒ばっかり飲むことになるんだよ春はいつも。
2001 4/9
なんだか非常に体の具合がおかしい。
昨日の花見は欠席して家で休養をとったのだが、それでも調子が戻ってこない。
今日はバイトも早退した。
めまい、吐き気、悪寒、などがしきりにして、とてもだるい。
熱はないようだ。
病院に行ったのだが、血液検査の結果が出るのは一週間後とのこと。
まだ笑う元気もちゃんと残っているし、大した心配はないと思うのだが、もしかするとちょっとシャレですまなくなりそうな雰囲気もそこはかとなーく漂っている。
ちょっと心配。
2001 4/11
少し具合良くなった。
まだ完調とまでいかないけど。
好きです、とか、付き合って下さい、とか、今どき言う奴いるのかね、と思っていたら、これがけっこういるらしい。
野暮な奴らだ。
「好きです」なんてのは別に改まって言うほどのもんじゃなく、付き合いの中で、言う必要を感じたり、感極まったりした時に、自然に言えばいいのだ。
そもそもそんなもんわざわざ言わなくてもわかるっての。
好意というのは態度に表れるものだし、またそうでなければ好意とは言えまい。
好意を示す時くらいは、言葉に頼りたくないじゃないの。
言葉にすんのは野暮だろう。
「付き合ってください」ってのもそうだ。
もうすでに付き合ってるんならそんなこと言う必要ないし、初対面でいきなりそんなこと言うのだとしたら、そいつはあまり人間と付き合ったことのない、思い込みの激しい困った奴なのだと思う。
そんな告白がどういう場合に有り得るのかオレにはちっとも分からない。
というか、そんな「告白」に区切られた付き合いなんか絶対したくない。
野暮なことこの上ない。
デートに誘うのも、セックスに誘うのも、付き合いの中で自然にあるのが自然な付き合いだと思う(あっ、ちょっと文章変だ)。
「付き合ってください」なんて「話しかけてもいいかい」くらいおかしなセリフだ。
「好きです」とか「付き合ってください」とか臆面もなく言ってるような奴には、オレの歌の素晴らしさはわからんのだろうなあ。
2001 4/12
あるバーで、オレはかなり酔っ払っている。
普段の紳士的な態度は跡形もなく消え去り、オレの目はエロスの権化、エロ神様が降臨したかのように爛爛と光りをたたえ、女の体のあちこちをねぶりまくっている。
周囲の客もはっきり言ってひいているが、オレはそんなことなどまるでまるで意に介さず、全身即チンポコとでもいった風情で女を口説いている。
オレ「君、分かってんのか。オレやで。オレが言うてんねんで。よーーーーーーく考えた方がええで。オレが今から言うこともっぺんよく聞いとけよ。「これから、一緒にホテルに行って、セックスせえへんか。」ええか。ちゃんと聞こえたか。よく考えて返事しいよ。ここからの何分間かがこれからの君の人生を決める重要なポイントになるかも分からへんねんで。」
女「だからさっきから言ってるじゃん。今日は遠慮しとくって。」
オレ「あーーー、アホやなー君は。次があると思ってんのか。次はないで。オレはそんな生き方してへん。オレはいつだってどこだって真剣勝負さ(ここだけ東京弁)。なんて言うの、その場のグルーブを大切にしてるからな。せやからこそオレはいつも今を慈しみたい、今すべてを愛したい、みたいなラブリーなかんじが常に出てるねん。この盛り上がりは今だけのものなんやで。オレはただ今を大切にしたい訳や。今君を抱きたいと思ったこの感情に正直に生きたいわけや。今、オレは間違いなく君に出会うために生まれてきたオレやし、君も自分では気付いてへんかもわからへんけど、オレに出会うために生まれてきた君に今まさになってあるねん。今やで。この世には今しか存在せえへんねんで。今を精一杯生きるくらいしかオレ達にはないやん。なあ、ホテル行こうや。」
女「あたし他に好きな人いるし。」
オレ「いいかげんにしろっ!!自分を粗末にするなっ!!」
女「は?」
オレ「オレは君が好きやから君がそんな自暴自棄になるの見てられへん。オレは不思議でしょうがないわ。なんでそんなに意地になっとん。人が聞いたら間違いなく君に説教しよんで。もう問題は君がオレを好きとか嫌いとかそういう問題ちゃうんや。問題は君が人生の最大級のメガトン級のチャンスを、ハピネスとは何かを知る素晴らしいチャンスをフイにしようとしてるっちゅうことや。これは人生に対する冒涜やで。誰もがうらやむ二枚目ミュージシャン、強くて、かしこくて、これ以上ないくらい優しくて繊細で、でもたくましくて、ほんでおまけにそこらへんのハムスターとかでは太刀打ちできへんほどのチャーミングな男が君を好きやと、今すぐ抱きたいと言うてんねんで。君はもうすでにちょっとオレが好きになってきてるはずや。その気持ちに素直にならなあかん。もしたとえそんな好きなかんじがこれっぽっちもなかったとしてもや。」
女「すごい自信なんだね。」
オレ「ほら。自信とか言うやろ。そんなんちゃうねん事実やねん。もし君が今オレとセックスせえへんかったら君は一生後悔する。オレには分かるねん。オレはええねんで。今君がここで帰ってもまあしゃあないかってなもんや。ただ君はな、一生後悔するわ。すぐに気付くかは分からん。けど・・・そうやなぁ、5年6年、下手したら10年たってからやな、突然気付くわけや。旦那さんを会社に送り出して、子供達も学校へ行ってもて、部屋の掃除も済んだし、コーヒーでもいれよかっちゅう時やな。君は突然音楽が聞きたくなる。ほんで棚を見てて見つけるわけやオレのCDを。ああ、そういえばあたし昔この人に口説かれたっけ、かなんか思い出しながら聞くね、君はオレのCDを。しばらくは君も微笑みながら聞いてるわ。けどしばらくすると君は突然涙をぼろぼろ流しはじめる。なんでか分からへんねん。なんでか分からへんけど涙は後から後から流れてくるねん。しまいにはしゃくりあげて泣くわ。ひっくひっく。もう止まらへんねん。なんでやろ。なんでやろ。なんで涙が止まらへんねやろ。なんでやろ。なんでこんなに悲しいんやろ。と、ここや。ここで君ははっと気が付くわけや。ああ、あたしはこの人が好きなんやわ、と。どや。悲しい話やろ。ほら見て。オレ自分で話してて感動してもた。ちょっと涙目なってるやろ。な。どや。君もかわいそうやと思わへんのかその未来の君を。なんて切ない話やろ。だってもうその時すでにオレはこの世にさえおらへんねんもん。たぶん。な。どや。一緒にホテル行こうな。セックスしようや。このチャンスを逃したら君がかわいそすぎる。オレはそんなんかわいそうで見てられへん。」
女「そんなにあたしのことが好きなの?」
オレ「ああ、せや。君がオレを好きなのに負けへんくらい、オレも君が大好きや。」
女「・・・・・・。」
オレ「・・・・(手を握りしめる)。」
2001 4/13
オレ、見た目はけっこうスポーツのできる奴に見られるらしい。
高校の時とかも最初の頃は、例えば校内バレーボール大会とかでいきなり主力選手として扱われていた。
しかしオレ、スポーツは全く駄目なのだ。
どうもオレだけ人類じゃないんじゃないだろうか、というかんじで筋肉や関節が人とは違ったふうに動く。
実際に人類じゃないのかもしれない。
例えば、オレとしてはプロ野球選手のように理想的な美しいフォームでボールを投げたつもりでも、傍から見ると日本脳炎の奇形児が駄々をこねているようにしか見えないらしい。
実際にそう言われた。
プロのフォームに擬態語をつけるとしたら、「ズバッ」とか「シュウォン」とかなんかキレのあるかんじだが、オレのフォームは「べんばらぼんぼん」とか「ぺたんぽたん」とか「ぬまーん」とかなんかそんなかんじだ。
これは実際に言われたわけではない。
まあ、見た目が多少変でも、ちゃんとボールがまっすぐびゅーんと飛んでくれれば、それはそれである意味かっこいいのだが、オレの投げるボールは思ったところに飛ばないばかりか、投球時の鬼気迫る気迫のこもった派手な表情とは裏腹に、平凡な軌跡を描いてすぐに失速し、地面をてんてんと転がっていく。
この顔が派手というのでも損をしている。
このギャップがまるでギャグみたいに働く。
スポーツ関係はほとんどすべてこの調子だ。
笑われたり、吉本新喜劇みたいにずっこけられるのならまだしも、真剣にひかれたり同情されたりした日にはなんだかもうただかなしくて自分の星に帰りたくなるほどだ。
だからバレーボール大会も当日になっていきなりさぼったし、体育の授業も高校時代はほとんどさぼってやった。
だってオレのことを好きな女の子達をがっかりさせちゃったら悪いじゃないか。
なんでかは知らんが、オレを社交的でスポーツ万能で勉強もよくできてクラスの人気者でギターも歌も上手い男だと思ってるような人がたしかに少なからずいたのだ。
オレはそういう人の期待を裏切ることのできない優しい男なので「つまんねーな」みたいな顔をして、いつも決してできないのではなく、あえてしないみたいなかんじできめていた。
世の中ではそういう奴のことを「見栄っ張り」と呼ぶらしいが、オレとしては断固そういう呼び名は拒否したい。
この「優しさゆえ」というところを強調したい。
あくまでも優しさゆえの「つまんねーな」だったのである。
思えば幼稚園の頃からそうだった。
お遊戯が致命的なほどできなかった。
お遊戯で「致命的」だなんておおげさだと思うかもしれないが、いや、本当に死にかけたことだってあった。
先生の真似をして一生懸命お遊戯をしてるうち、背後の段差に足をひっかけて転んで側頭部を強打、4針を縫う大怪我をしたりした。
打ち所が悪かったらシャレでは済まなかっただろう。
今日、オレは気持ちのいい夜だったので散歩しようと思い、バイトの帰りに近くのグラウンドに寄った。
すると鉄棒があった。
・・・・・・・・。
逆上がりってつまんないよな。
2001 4/15
昨日は友人の花見会に参加した。
酔っ払って帰って寝た。
今日はスタジオで練習。
一日中歌っていたのだが、どうもしっくりこない。
何かが足りない。
音楽脳が今かなり忙しいので、今日の日記はこれまで。
2001 4/16
昨日からずっと頭の中で演奏している。
人との会話も成立しないありさま。
ぼんやりしているだけにしか見えないだろうが、オレは忙しいのだ。
したがって今日も日記はここまで。
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