徒然またよし日記・8月後半9月前半






なんか良くは分からないんだけど、
この日記才人というやつのランキングに参加してみました。
ランキングが上がれば上がるほどさらにお客が増えるというかんじの雰囲気です。
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こういう地道な努力によってオレのライブは赤字から脱出できるのです。
きっと。


2001 8/28

9/2に個人情報保護法に対しての大規模な反対集会があるというチラシをあるライブハウスで見つけ、いったいどういうことなのだろうと少しネットで調べてみた。
(ずらっといろいろなページを読んでみたのだが、ここのサイトが一番詳しいようだ。興味のある方はどうぞ。)
なんだかえらいことになっているようだ。
小渕政権の時、組織的犯罪対策三法やら個人情報保護法やら住民基本台帳法一部改正案等が大した議論もなく議会を通過したという話は知っていた。
週間文春で誰かが批判しているのを読んで、「この小渕ちゅうのはぼんやりした顔してるくせにむちゃくちゃしよるな」と思ったのを憶えている。
その前に全国の公立学校に始業式、終業式での国旗掲揚、国歌斉唱の義務を通達したりしていたので、けっこう小渕にはむかついていたのだ。
法律で定められている訳でもないのに、何を根拠に義務化できるのか今だに疑問だ。
そんなのは個人の自由でも一向にかまわないと思うし、そもそも「式典」というものがなぜ学校で必要なのかすら分からない。(誰かかしこい人がいたら教えてほしい。)
その週間文春の記事では、小渕の最終目標は徴兵制なんじゃないか、みたいなことを言っていて、オレも「詳しいことはわからないが、何にせよもしも日本が徴兵制になったらオレとしてはとにかく断固としてサボタージュしよう」と固く心に誓ったのだった。

オレはかなり前から「国家無視革命論」とでも呼ぶようなものを考えていて、「皆で国家なんて無視しましょうね。ニヒリズムをどんどん推進して、皆が個人になり、権威というものの成立する余地をなくしましょうね。」みたいなことを折に触れて主張していた。(詳しい話は過去の日記のあちこちに点在している。)
ただの理想といえばそれまでなのだが、理想があってこそ指針というものが成立するのだから、理想を語ることは良いことだと思う。
権力というのは結局は個々人の心の中にしかない。
誰が行使しようが暴力は暴力でしかない。
オレは国家による権力の行使それ自体の正当性を問いたかった。
例えば、国のサービスを受けることを全て可能な限り拒否し、それを担保に買えるだけの自由を国家や制度から自分の元に買い取ろう、というのはそんなに出鱈目な論理じゃないと思うがどうだろうか。
基本的人権を保証するが義務は守れ、というのは、そんな保証いらないから義務は免除して欲しい、という選択肢があってこそ公平だと言える。
投票権をくれるだけで「俺達の決めたルールに従わない奴は俺達の決めたルールに従って制裁を加える」という意見を通そうというのはなんだか無茶な気がする。
「国家」という「制度」への参画が、拒否を許されない一方的なものであるなら、それこそ「国家」の唱える「人権」もただの「アメとムチ」のアメでしかなくなってしまう。
「我々」にできる戦いならいくらでも思いつくが、オレには「個人」としてできる戦いは「無視」以外思い浮かばない。
少なくともそもそもの根本を問うための意志表示は投票ではあり得ないだろう。
例えばもしも投票率が10パーセントを切ったとしたら、確実にその政府は有名無実なものになる。
それでオレはずっと投票を拒否していた。
しかし。
世の中はオレの望むのとは全く逆の方向へ向かいそうだ。
とりあえず投票拒否はやめ。
「そもそもの根本を問うための意志表示」よりもこの一連の法案に反対することの方が先だ。
避けられないクソなら甘んじて受けるが、避ける努力はさせてもらう。
人が下手に出てたらいい気になりやがって。
もっと直接に文句を言わせてもらうことにした。
オレは怒った。

まず、「行政機関の保有する電子計算処理に係る個人情報の保護に関する法律」から文句を言わせてもらう。


つづきは明日。


2001 8/29

「行政機関の保有する電子計算処理に係る個人情報の保護に関する法律案」は1988年4月に政府から国会に提出された。(12月に公布)
国のコンピュータで管理する個人情報(住所、氏名、年齢、職業、年収、家族構成、犯罪歴、等その他いろいろ)について、不正に使われていたり、間違った情報が入っていても、国民にはそれを確認する方法がないので、国民が主体的にチェックできるようにしよう、というのがこの法案の主旨だった。
理念としては素晴らしいのだが、内容に不備がある。
まず、この法案には例外規定が多過ぎるのだ。
犯罪、出入国、税務、内申書、医療用カルテ等がそれである。
さらに言えばその対象が「行政機関の持つ電子情報」だけに限られていて、しかも何の罰則規定もない。
欧米ではまず情報公開法が生まれ、全面公開原則の例外として(いわゆる)個人情報保護法が生まれた。
情報公開法のおかげで、アメリカ等では市民による行政へのチェックができるようになった(1966年、1974年改訂)。
例えばダムを作る時、誰がどのような議論を持って決定したのか。
いくらかけるのか、またその内訳はどうなっているのか、なんてことが誰でも(外国人でも。他国のスパイでも。)情報開示請求できるようになったのだ。
最近日本でも問題になっている役人の接待費等も、アメリカなら皆がチェックできる仕組みだ。
しかし、役人にも、問題に関わる民間人にも、プライバシーがある。
そこでアメリカでは個人情報保護法(1974年)が作られたという経緯がある。
情報公開は世界の流れでもあり、民主主義にとってとても重要な役割のひとつである。
政治に透明性がなければ、民主主義の意味がなくなる。
政治の実務について、国民がチェックできる態勢になれば、ひとつひとつのルールや業務に関して皆でもっと突っ込んだ議論をすることができ、より市民の側に立った(権力を握る一部の人間の為でない)行政が期待できる。
皆でチェックすればそれだけ不備の少ない行政にすることができる。

いわゆる「知る権利」と「内心の秘密(プライバシー)の権利」は並行して考えるべき問題だ(ここ重要)。
自治省は個人情報保護法と情報公開法を平行して検討していたが、情報公開法の方は関係各省庁の抵抗が凄かったので「行政機関の保有する電子計算処理に係る個人情報の保護に関する法律」を先に提出したという(意味ねー)。
情報公開法は日本でも1999年にようやっと制定されたが、情報不開示に対する訴訟を高裁所在地にしか認めなかったり、特殊法人や新設が検討されている独立行政法人を当面対象機関から除外していたり、不開示情報の範囲を運用上の裁量に委ねる内容となっていて、超ウルトラスーパー不備だらけである。
以前から行政側は「プライバシー保護」を名目にいろいろな書類を「不開示」扱いにしており、民間の監視をどこまでも拒否しようとしている。

個人情報保護の主要な問題というのは、情報公開法の中での、本人の請求による情報の開示義務の範囲と、それに関連した個人のプライバシーの範囲の問題である。
本人開示は、個人の権利利益の保護のためにどうしても必要だ。
個人情報保護のために(悪用や乱用を防ぐために)、国や地方自治体や特殊法人又は一般の企業が握る我々の個人情報を、彼等がどこまで我々に開示すべきでどこから不開示にすべきなのかを明確に規定する法律が必要だ。
医療、教育関係情報の本人開示の問題は、国の施設のみならず公立・私立の施設を含めた、情報の取扱いに関する基本的な在り方にかかわる問題だから、それぞれの分野における専門的な検討が必要だし、本人開示に特有の開示範囲は、不特定多数者を対象とする不開示情報の考え方とは異なるから、請求者が本人であることの確認手続を規定することなどの情報公開法の枠組みを越えた検討が不可欠となる。
それで情報公開法とセットで個人情報保護法が必要となってくる。
コンピューターハッカーやストーカー対策や名簿売買対策の問題はそもそもこの個人情報保護の文脈とは別枠で論じられるべきものだ。
まずここを理解してほしい。

で、「行政機関の保有する電子計算処理に係る個人情報の保護に関する法律」の不備はたびたび指摘されていて、成立時にすでに衆参両院で付帯決議がつけられ、「対象を民間機関に拡大」し、「対象を(現在の電子情報に限るものでなく)マニュアル情報にまで拡大」し、 「五年以内に見直す」ことが国会で約束されていた。
しかし1988年の公布から5年たって1993年になっても何の見直しも行われず、それとは別に「個人情報保護基本法案」が今年(2001年)3月に政府により国会に提出された(つまり「行政機関の保有する電子計算処理に係る個人情報の保護に関する法律」はそのまま)。

現在問題となっている「個人情報保護基本法案」はそのまま「国家機密保護法とでも呼ぶべきもの」として運用できる仕組みになっていて、国民が監視できないばかりか、国家が業務上取得した国民の個人情報を、別の様々な管理目的に利用することを実際上制限できないものになっている。
そして民間事業者が管理する個人情報についても、「個人情報保護」の名目で国が取り締まることが可能になっている。
つまり情報公開法により、国民が行政を監視するはずだったのがいつの間にか、国の国民への監視が強化されることになってしまっていたのだ。
なんでやねん。
そしてその問題はそのまま「住民基本台帳法一部改正案」の問題につながってくる。

あー。
かったるい文章や。
明日元気があったら今度は「住民基本台帳法一部改正案」についても少し文句を言う予定。


2001 8/30

法律や政治などという俗世のことについて話すのはあまりみっともいいものではない。
己を見つめることと「渡世」のことは全く別の次元の話だ。
哲学から世渡りの術を取り出そうとする人は愚かだ。
けれど、なぜか鼻についてしまうのだ。
社会のルールなんてそれ自体大嫌いなんだから、せめて理屈だけは合わせてほしい。
納得くらいさせてほしい。
スジの通らないルールは、基本原則からの帰納も演繹もできないようなルールは、いちいち覚えられないから、守ることができない。

戸籍というものが嫌いだ。
管理する側が便宜上、何かに従って人間を仕分けして考えるのは、意味が分かる。
どんな場合だって何かを把握するためには、色々な側面からそのものを定義していかなければならない。
「オレ」という存在だって誰かから見れば、住所や氏名や職業や年齢や血液型や犯罪歴や学歴や音楽の趣味や家族構成や使っているコンピューターの種類や付き合っている女の数や取得した国家資格や好きな作家や着ている服や年収や、その他様々なファクターによって定義された「オレ」だろう。
だが地縁や血縁にいったいどんな意味があるだろう。
血液型で税金の額を決められたらたまらない。
よろしい、国がオレに年収が幾らなのか聞くことにはその妥当性は別として意味があると認めよう。
住民税等がある現在の税制の性格上、オレに住民票を提出しろ、というのも、まあその妥当性は別として意味があると認めよう。
しかしただその場合、生活の有無を問うのはおかしい。
現在住んでいない自治体に住民票を提出してもいいじゃないか。
住民票は地方自治体への税金名簿としてのみその存在意義がある。
オレがどこに住んでいるのかいちいち国に届ける必要はない。
国はその制度によって、国民が旅人として生涯を生きることを困難にしている。
ばかやろう。
税金を払わないとは言わん。
だがどこに住もうがオレの勝手だ。
仮に税金を払う義務を認めたからって、ひとところに止まって生活する義務などまで負わされる筋合いはない。
戸籍もそうだ。
国に家族の在り方まで決められるのは腹が立つ。
戸籍が何に役立っているのか知らんが、名前を変えるのは自由でもいいだろ。
夫婦が別姓でもかまわんだろ。
そっちが便利が悪いからという理由で、オレの「好きな名を名乗る自由」を侵害されるのは許せない。
そもそもなんで必要なんだよ。
オレの血のつながりなんておめえらには関係ないだろ。
エタだろうがヒニンだろうがそんなもんはファックな差別なんだろ。
スジが違うぜ。
おまえらの便利のために、なぜオレの大切な自由を侵害されなきゃいかん。

どこに住んだってかまわんじゃないか。
どんな名を名乗ったってかまわんじゃないか。
誰が先祖かなんて大きなお世話じゃないか。
裸で往来を歩いたってかまわんじゃないか。
どこでセックスしたってかまわんじゃないか。
シャブだろうがシンナーだろうがガンジャだろうがアシッドだろうがゴキブリだろうがトカゲだろうがうんこだろうがぞうりだろうがせんたくばさみだろうが何を食ったってかまわんじゃないか。
自殺したってかまわんじゃないか。
何を描いたって、何を歌ったって、どんな文章を作ったってかまわんじゃないか。
オレの自由を侵害しない限り、オレは誰にも文句は言わん。
基本原則は、「他人に何かを強制したり、暴力をふるったりするのはいかん」ただそれだけでいい。


2001 9/1

人は中庸を美徳とするが、オレは極端こそが美しいと思う。
極端は誠実で清潔でいさぎよい。
ほどほどに生きようとする者は本当に人生を愛しているだろうか。
情熱は極端を求め、中途半端を憎む。
情熱は生命の要だ。
人間の魂というものはおそらく情熱に共振するようにできている。
多くの人は極端を忌み嫌うが、その実極端なものに恋い焦がれている。

人類史上の多くの聖人達は情熱的に絶対を求めるゆえ、絶対のないこの世で、何も持たないという清潔をこそ選んだ。
彼等は情熱的に枯れた。
特に払われた注意というのは、それがどんなものであれ、不潔で、下品で、やかましい。
聖人達の懐には芸術など存在しなかった。
表現などというおしゃべりなものは、たとえそれがどんなに自然の素朴を真似ようとも、俗悪なものでしかない。
表現から俗悪を排するのが無理であるなら、表現そのものが俗悪であるなら、とことん俗悪を極めずして意味ある表現のあろうはずもない。
偉大な芸術家とはまた偉大な俗物であったろう。

大自然の美しさにかなう芸術などどこにも存在しない。
特に払われた注意というのは、それがどんなものであれ、不潔で、下品で、やかましい。
路傍に転がるただのちっぽけな石ころでさえ、どんな芸術でもかなわない品位というものを持っている。
何の意味も持たぬ直接な物体は、その直接さにおいて永遠の観賞にも耐えるだろう。
何の意味も持たないことは、それ自体が直接な観念だ。
生命は常にみっともなく地べたを這いずりまわっている。
人為の存在しない孤高の美を知る者が、孤独の意味を知る者が、それでも何かをこの世にあらわすという、そのかなしさだけが、ただの表現と芸術を分けるものだと思う。
人はただ人が恋しい。
芸術は徒労だが、芸術の持つかなしさは、人の心を打つ。

芸術家とは何と業の深い生き物だろう。
芸術は号泣する。
芸術は無惨に敗北する。
なるほど「芸術は爆発だ」とは至言である。
「芸術」として残るのは常にその残骸だけだが、それだけでも爆発のすさまじさを伝えるには充分だ。
芸術とは人為の極みである。
自然のふりをしようなどとはどだい無理な話だ。

正面から堂々と無駄骨を折ろう。
ひとつ残らず何もかも捨てるのでなければ捨てることに何の意味もない。
聖人には「やや聖人」とか「比較的聖人」なんてのはない。
清潔が無理ならとことん下品に生きることだけが唯一の清潔だろう。
人間のくせに不死のつもりで、「その時」を待とう。
とことんやるのが情熱だ。
極端は美しい。


2001 9/2

母親から缶詰が届いた。
いろいろと入っている。
沖縄の食い物だ。
メイファー印のストゥー(シチューなのだが、沖縄ではなまってこう呼ぶ)缶を開けて食ったり、いろいろと仕分けして流しの下に片づけたりしてるうち、なんとなく子供の頃のことを思い出したりした。

オレの両親というのは沖縄には数少ないインテリで、まあ自分で自分の両親を臆面もなく「インテリである」なんて言うのは恥ずかしいことではあるけども、当時、高齢者にはひらがなさえ読めない文盲も当たり前だった南の果ての小さな貧しい島で、我が母と父は新劇などというものをやっていた。
スタニスラフスキーがどうの、ベケットがどうの、唐十郎がどうの、別役実がどうの、土方巽がどうの、ドストエフスキーがどうの、と、仲間達と朝方まで酒を飲んでわいわいやっていた。
オレは眠くなるまで母の隣に座って、そういう訳の分からぬ難しい話を子守歌のように聞いているのが好きだった。
国立大学に合格すれば新聞に名前が載って、村中の人間がお祝いするような時代である。
いつの日か劇団は当然の話ではあるのだが金銭的に立ちゆかなくなり、解散の憂き目にあってしまった。
客がちっとも入らなかったのである。
その後は母は作家になりたくて、しかしなれなかった南島の塾講師として、オレと兄を育てることになる。

母はよく子守歌のかわりに、ランボーの詩集を読んでくれた。
今になって思うと無茶苦茶な親だが、あれを読んで聞かせるとオレは不思議とよく眠ったらしい。
その頃からオレの詩の才能は云々、などと始めるつもりはない。
おそらくそれが落語だったって流行歌だったって結果は大して変わらなかったに違いない。
オレ達はランボーもアンパンマンもないような戯れで、しばしばかけ合いめいたものをやったりした。
夕暮れ時などに、人気のない道を母と二人で歩いていると、突然母が芝居めいた口調で言う。
「見つけたぞ。」
オレも心得たものでこう応える。
「何を。」
すると母が言う。
「永遠を。」
そうしたら二人で口をそろえて言うのが約束なのだ。
「それは海を穿つ(うがつ)太陽。」
その後に母は、「永遠は、別に太陽でなくてもかまわない。あんたはあんたの永遠を見つけなさい。ポケットの中のチョコレートだって永遠かもしれない。」などと言って、頭をなでてくれたりした。

小学校の6年生の頃、居間に横になって太宰治を読んでいると、ついでにどうだと言って坂口安吾を持ってきたこともあった。
中学に入ってバンドを結成し、パンクを気取っていた頃にはスターリンやバクーニンの本をくれた。
難しくて難しくてさっぱり理解できなかったが。
高校生になると、ちょくちょく吉本隆明や小林秀雄の本を母の本棚から失敬して、学校をさぼっては眺めのいい場所でゆっくりと読んでいたものだ。

音楽を聞いたり、エロ雑誌を仲間と廻し読みしたり、少年ジャンプを熟読したり、自転車をかっぱらったり、ライブでかっこつけて歌ったり、デートで失敗したり、いきがって歩いているのを数人がかりでタコ殴りにされたり、ファミコンばっかりやっていたり、その上ドラゴンクエストの最後のとこで感動して泣いたりしているオレを母は知らないが、本ばかり読んでいる弱虫の文学少年のオレをなら、母がよく知っている。

母から貰ったものは今朝届いたこの缶詰をはじめたくさんあるが、「良俗」や「常識」や「世俗」や「因習」などといったものは、母は一度たりともオレにくれなかった。
オレはそれにとても感謝している。
もちろん、
だからと言ってオレがバイトを遅刻したり、所かまわず寝たり、頭からパンツをかぶったりするのが母親のせいだと言うわけじゃない。
母親だったら世渡りに必要な常識のひとつも教えてくれりゃあ良かったじゃないかとは、言わぬが花なのである。


2001 9/3

月も、星も、灰色の雲に隠れて見えないけれど、電飾を映し込んだアスファルトが、まるで夜空みたいに光っている。
不思議に落ち着いた雨の夜。
潮騒めいた行き交う車。


2001 9/4

友人が「生まれ変わったら何になりたい」と聞いてきた。
友人は「美人の女の自転車のサドル」になりたいんだそうだ。
そんならオレは「ビール工場のチューブ」になりたい。
全身これすべて「のどごし」。
ビール工場のチューブになってのどごしとして生きていきたい。
のどごしのみで。


2001 9/5

10年前に音楽で知り合った友達と、10年ぶりに音楽で再開した。
なんだか仲間だという気がする。
お互い相変わらずだ。
「相変わらず」というのは素敵だな。

ナオキ、今度セッションしようね。


2000 9/6

疲労がどんどんたまっているのである。
大人になるにつれどんどん忙しくなっていく。
激動の2001年夏。
冬にはオレはどんな顔をしているかな。


2001 9/7

神戸の友人から電話がある。
最近は疲れてイライラしていたので、そいつとの会話はとてもいいリフレッシュになった。
バイトの帰りにバンドのベースのヨシヤと飲んでいたのだけど、その「ハッピー」が消し飛ぶくらいヤツはごきげんだ。
何度も何度も「女性の大切な部分のかゆみをおさえるフェミニーナなオレに何か用か。」などと言う。
15回くらい。
しつこい。
ああ、関西なノリだ。
オレは妙にそのノリに合う。
そういう「つっこみに悩むようなくだらないノリ」が大好きだ。
関西に住もうかな。

魅力的な人間というのは、「かしこい」とか「センスがいい」とかそういうことじゃなく、エンターテイメントであるということなんだと思う。
愛のあるヤツはセンスがくだらなくても素晴らしい。
不気味なくらいの「しつこさ」は、時に危険なくらい面白い。
あいつは最高だ。
オレの「つっこみ」では太刀打ちできないほど、あいつはしつこくて、くだらなくて、悪びれない。
オレもフェミニーナ・キワムになろうかと思ったくらいだ。


2001 9/8

なんだかだるくて一日中寝てた。


2001 9/9

午後2時からヨシヤと新曲の打ち合わせ。
午後5時からバンドの練習。
練習の後、皆でラーメンを食って、吉祥寺に9/25のチケットを取りに行く。
ざんざか降ったりしばらく止んでみたり、はっきりしない雨。
次のライブでは寛さんの前で「夢は夜ひらくバンドバージョン」をやる予定。
しっかり練習しなくちゃ。

酒を飲んでるより、かわいこちゃんを口説いているより、今はとにかくバンドのサウンドをしっかりさせることが楽しいし、重要だ。
ひらたく言うと余裕がないということなんだけど。
最近はいつも頭の中で作詞と作曲ばかりやっている。
人から見ると白痴的なくらいぼんやりしてるみたいだ。
決して社交的なことじゃないし、時に軽蔑や反感を買うけれど、ひとつのことに打ち込むというのはたぶんそういうことなんだろう。
アインシュタインが友人に宛てた手紙の中で真剣に「物理学者の職業として理想的なのは灯台守だ」と言っていたのを思い出す。
起きている時間のすべてを思索に充てたいと、本気で何の疑問もなく無邪気に思えてしまうのが彼の天才たる所以だったに違いない。
オレもいいところで人に話しかけられると、そいつを殴り殺したくなるし、山に篭もって一人になりたいと思ったりする。
なるほど、灯台守とはいいアイディアだ。

台風楽しみ。
台風がやってきて、そして過ぎてしまえば、きっと秋だ。
台風明けの秋晴れの空はきっと美しいに違いない。
秋はしずかで、かなしくて、退屈で、きれいで、さみしくて、なつかしくて、やさしい。


2001 9/10

まさしが来ている。
すごく久しぶり。
酒がおいしい。


2001 9/11

テレビを見ていたら、ニューヨークの世界貿易センタービルとペンタゴン(国防総省)に小型飛行機が突っ込んだというニュースが始まった。
バラエティー番組を途中で中断して「大変なことが起きてしまいました。」などと神妙な顔で言っているので、どこかの国が日本に宣戦布告でもしたのか、オウム以来の大規模なテロでも起こったのかと聞いていると、なんだ、海の向こうのアメリカでの事件だと言う。

特攻、カミカゼアタック、というのはかなりショッキングなテロだ。
まずそこが気になった。
ぶつかる瞬間の運転手の顔、気持ち、つぶやき、などを想像する。
真っ先にそういうところに興味が湧いた。

今日は台風だったのでバイトを病欠して、部屋でごろごろしていた。
台風は祭りだ。
祭りというのは人間の原始の血を沸き立たせ、日頃道徳やら常識やら慣習やら因習によって押さえつけられた野性を開放する日である。
祭りの時の暴走は、少なくとも祭りに参加した者にとっては、すべてチャラになる。
「ええじゃないか」なのだ。
大地震も祭りだし、大噴火も祭りだし、ライブだって祭りだし、そしておそらく戦争だって暴動だって祭りである。
戒厳令下の夜にはセックスが似合う。

テロによって騒然となったニューヨークで皆がセックスしているシーンを想像する。

がちゃりと箱をひっくり返す。
ぜんぶチャラになる。
何もかもやり直しにする。
どこかの権力者達がガス抜きのために許容しているしょうもない祭りより、惨劇の方がよほどエキサイティングだ。
オウムの時も、バーはにぎやかだった。

被害にあった人には気の毒だが、もうもうと煙りをあげる貿易センタービルが、オレにはなぜか巨大な祭壇の巨大な焚き火に見えてしまう。

なんだか時代が祭りを求めているような気がしてならない。
人を殺したり、殺されたり、巻き添えで死んだりするのは、もちろんオレもごめんだが、でかい祭りなら、オレだって大歓迎だ。
おそらく祭りこそが歌のふるさとだと思う。
この文明社会が崩壊したって、いい祭りができるのなら、これっぽっちももったいないとは思わない。

時代の空気が関東大震災を心待ちにしているような気がする。
時代の空気が大戦を心待ちにしているような気がする。
ハッピーな祭りならいいが、どうももうハッピーではおさまらないくらい鬱屈しているかんじだ。

なんだかとりとめもない話になったな。
明日の空がばかばかしいくらい晴れ渡っていることを、とりあえず祈る。


2001 9/12

昨日の日記で、小型飛行機と書いてあるが、実際は旅客機だったという。
今日は皆大喜びで事件について話していた。
オレはいきなりしらけてしまった。
映像はとても美しいものばかりだった。
なぜ黙って見ていられないのだろう。
なぜすぐ安易に定義づけてしまおうとするんだろう。
せっかくの抜き身の現実なのだ。
身も蓋もない、ぽんと中空に投げ出されたような、赤裸々な、絶句する、理屈など何の意味もなさない、真空の、透明な、静寂に包まれた、ただの抜き身な現実なのだ。
人はそこで孤独を知る。
人間という存在の残酷なほどの自由を知る。
理屈をつけてごまかしてはいけない。
それはどんな定義をも受け付けない。
残酷でなつかしく美しい「ぶつりとちょんぎられた」抜き身の現実がそこにある。
善悪も時代も背景も政治も決して触れることのできない、人間の精神の深い部分の何かに、それは確かに訴えかけている。
時に海や、空や、風や、炎が触れる、あの人間の心のふるさとのような何かに。

皆、下世話なことばかり言っている。
彼等は自分の心の底の「人間の声」が聞こえないふりをしている。
その声には耳を傾けるべきでないと思っている。
社会人としての体裁を保とうと努力している。
高みの見物で酒を飲み、セックスをして何が悪い。
「人間」を封殺することこそ偽善だ。
対岸からマンハッタン島を眺める膨大な数の野次馬達の目は、芸術家のそれと変わらない、澄んだ目だ。
見ることがすなわち考えることであり、考えることがすなわち見ることであるような目。
祭りの目。

誰が何のためにやっただとか、これからどうなるとか、そういう話をするのがいけないとまでは言わんが、死んだ人に同情したり、犯人に憤りを感じるなとは言わんが、道徳ばかりを見て不感症になってはつまらない。

素直に絶句してりゃあいいと思うのだが、どうも皆、ニュースキャスターのようなことばかり喋っている。


2001 9/13

タイトロープ

むなしいくらいは誰でも知ってる
死にたいくらいはオレでも知ってる
やましいことならたくさんあるが
それでもオレは胸を張る

歌おうじゃないか
声も高らかに
図々しくも切ない空よ

先に両手をはなすから見てろよ
きっと後から飛び降りておいで
ここで待ってるよ

間奏

さみしがるのはずるいこと
死にたくないだなんて恥知らず
それでも最後をあてにして
君を抱きしめる

歌おうじゃないか
手をつないで
ふざけるみたいに
涙のかわりに

話しかけてもいいかいなんて聞くのは変だろ
思い出みたいに遠い空
ここで待ってるよ


2001 9/15

昨日はバイト先の面々と焼き肉を食った。
夜はそのまま友人の家に泊めてもらった。

テレビでは相変わらずテロ事件のニュースばっかりだ。
ガキの頃から「仕返し」は一番いけないことだと、許すことが肝心なのだと教わってきたが、世界の常識はどうにも血の気が多い。
被害者を気の毒に思い、なんだかブルーになったりもするが、気の毒な人なら他にも大勢いる。
正義なんてどこにもありはしない。
ただの裸の「惨劇」があるだけだ。

その昔、前田日明は「誰が一番強いかリングで決めたらええんや」と言って新日本プロレスを脱退したが、国際政治の世界だって、何が問題なのかみんなで話し合ったらいいと単純に思う。
根気強さと愛さえあれば、世の中に「問題」と呼べるようなものはないと思う。
みんなでしつこくしつこく話し合えばいいのだ。

昨日、バイト先の同僚がオレの遅刻に激怒していた。
「おめえには関係ないじゃん」と言いそうになったが、根気強く話し合った。
向こうが自分の怒りがただの嫉妬だということを認めてくれたから、オレも遅刻しないよう注意することを約束した。
それが正しいと思ったからじゃない。
仲良くやっていきたかったからだ。

人は孤独だ。
それぞれが、自分の道を歩めばいいと思う。
ステージで歌を歌うことと、テロリズムに、大した違いはないように思う。
せめて精神くらいは自給自足したいものだ。
他者や社会によって変わるような「幸福」というものをオレは信じない。
たぶんそこからじゃないと何の「対話」も生まれないように思うのだ。







過去の日記

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