徒然またよし日記・5月後半






なんか良くは分からないんだけど、
この日記猿人というやつのランキングに参加してみました。
ランキングが上がれば上がるほどさらにお客が増えるというかんじの雰囲気です。
オレを助けると思って登録してみて下さい。
こういう地道な努力によってオレのライブは赤字から脱出できるのです。
きっと。


2000 5/26

最近は暖かい日が続いている。
バイトのお昼の休憩時間を利用してオレは高い所に昇った。
多少二日酔いだったのだが屋上で日向ぼっこをした。
もうすぐ梅雨がくる。

今日ちょっとしたことがあって自分の年齢を計算してみたらまだ25歳だったことが判明した。
てっきり今年で27歳になると思っていたのでびっくりした。
どこらへんで狂ってしまっていたのだろう。
なんにせよちょっと得した気分ではある。
2回も26歳をやれるなんてラッキーじゃないか。

レトルトのタイカレーを買って食ったのだがこれが実に旨い。
自分の家で大量に作って大量に食いたいのだが、ちょっと難しそうだ。
誰かタイカレーに詳しい人がいたら教えてほしい。



2000 5/25

今日のライブは観客がたった二人だった。
しかしとてもいいライブができた。
オレには昔から「観客が少なければ少ない程いいライブになる」というジンクスがある。
今日のライブもそれを裏付けるようないいライブだった。
やだなぁ、そんなジンクス。

個人の実存の立場から言えば「隣の猫が赤ちゃんを生んだ」というニュースも「フィリピンの飛行機がハイジャックされた」というニュースも大した違いはない。
その立場から言えば現実なんて単なる条件なのだ。
それ以上の意味はない。
社会的な実存などはおまけのようなもので、真の問題は個人のもっと内的な場所にある。
時代を越えて普遍的な「人間としての真実」にこそオレは興味がある。
「ニュースを見ろ。」などと言う哲学者はおそらくいない。
もっとラジカルに「普遍性」を指向するがゆえに哲学者は哲学者足り得るからだ。
ニュースというのはその全く逆をいく。
ジャーナリズムというのはその根本にある種の「下世話さ」を持っている。
オレは前に「求道こそが生きる意味だ」みたいなことを言ったが(エッセイの「求道者たれ」を参照のこと)、ジャーナリズム自体の構造は何かを深めていくような作業とは一線を画している。
ジャーナリスト達は意識してるにせよしていないにしろ、自分の仕事のどこかにある種の虚しさを感じているのではないだろうか。
だからやっきになってジャーナリズムの社会的な意味を訴える続けるのじゃないだろうか。
インターネットは「ニュース」の意味をこれからどんどん変えていくのじゃないか、という気がする。
発信の場を手に入れた個人がどんどんごく個人的な「ニュース」を発信し始めている。
情報に貴賎はない、というか、何というか、現在のジャーナリストの「隣の猫よりハイジャックの方が重要で有益なニュースですよ」というような、よくよく考えてみると恐ろしいような物言いがこれからはだんだん通用しなくなっていくのじゃないだろうか、という気がする。

昨日は酔っ払っていて、上手く書けていなかったみたいなんで改めて味も素気もないけど昨日の文章の補足をさせてもらった。
って今日も酔っ払っているから後で冷静になって読んでみたらどうなのかは知んないけれど。

ああ、こういう真面目な話は面白くないよな。
すまんな。
酔っぱらいの話なので許してくれ。
おやすみ。


2000 5/24

よっし。
明日はライブ。

森総理がバッシングされているらしい。
「神の国」だとか、なんかそういう失言が多いという話だ。
そもそも「神の国」発言がはたして本当に失言なのか、失言だとすればそのどこが問題なのか、という話がちらちら頭をかすめるが、そういう話は手間のかかるわりにはおそらくちっとも面白くない話になりそうだからこっちにおいておく。
今日はそれよりも何よりももっと根本的な問題について言及したい。
ちょっと前の石原都知事の「三国人発言」もそうだが、テレビで大々的に宣伝しなけりゃ誰もそんな発言あったことすら分かりゃしねーっての。
テレビのやつらにしろ新聞のやつらにしろいつも「ジャーナリズムは公平な報道を心がける」とか言っているくせに、そうやって問題発言扱いすることですでにある特定の思想をみんなに押しつけていることになりゃあしないのかい。
だいたいオレは「チクる奴」が一番嫌いなんだ。
「あいつあんなこと言ってましたよ。」とか、「教室のガラス割ったのあいつですよ。」とか。
小学校の頃とてもいい先生がいて、「誰だ。学校にトランプ持ってきちゃいかんと言っているだろう。誰だ。誰が持ってきた。」かなんか言ってものすごく怒っていても「先生、又吉君が持ってきました。」かなんかオレ以外の誰かが言った日には「トランプを持ってくるよりももっと悪いことがある。それは友達を売ることだ。先生は密告屋は大嫌いなんだ。」とか言ってそいつのことをビンタするような先生がいた。
もちろん結局オレも殴られるんだけど。
あの人はいい先生だった。
テレビなんかただの密告屋じゃねーか。
たとえもしも万が一オレが森総理の発言にむかついたとしても、その怒りが真っ先に向くのはおめーらテレビにだ、この密告野郎。
そういうことをみんなに言うのなら、まず森さんに事情を聞いて、その真意を計るのが先だろう。
密告屋は男じゃない。
発言には責任を持て、とまずおまえらに言いたいぞ。
何か問題があると思うなら他人に言う前にとりあえず自分が行って戦ってこい。
他人の戦いをあてにするな。
その戦いがもしオレを感動させたなら、おまえが死んでもきっとオレが骨は拾ってやる。
誰が自分で何もしないで他人を煽るだけのクソヤロウの話を聞くもんか。

なんだか「そもそもジャーナリズムとは何であるか」というような話もしたくなってきたが、そろそろお酒を飲みたくなったのでその話はまた次の機会に。
ニュースは大嫌いだ。
今日のバーでの話題はこれで決まりだな。
ほんじゃ明日。


2000 5/23

150,000,000円。
はい。
今心の中で「いちじゅうひゃくせんまん・・・。」
って数えたでしょ。
ね。
オレは子供の頃からこの3桁おきに点を打つやり方が気に入らない。
こんなものはほとんど役に立たない。
結局みんな「いちじゅうひゃくせんまん・・・。」って心の中で数えているはずなのだ。

この3桁おきに点を打つやり方は英語圏ではすごく役に立つだろう。
英語だと1の位が丁度4桁目、7桁目にくるからだ。
向こうでは「15,000円」ならヒフティーンサウザンドと言って、日本風に言うなら15千円みたいに数える。
「15,000,000円」ならヒフティーンミリオン、15百万円。
しかし日本では1の位は5桁目、9桁目にくる。
だから日本では「15000」なら「1,5000」、「15000000」なら「1500,0000」と、4桁おきに点を打つ方が断然数えやすい。
これなら「〜億〜万」みたいに数えられて一目で分かる。
いちいち「いちじゅうひゃくせんまん・・・。」とやらないですむ。
実際、小学生の算数の教科書では4桁おきに点が打たれていた記憶がある。

なぜ官公庁や銀行や市販の伝票などで「3桁おき」が採用されているのだろうか。
あれは明らかに「間違っている」のだ。
まぁ銀行などはしょうがないので数を書くマスの右隅に小さい「千」とか「万」の字をいれてなんとかお茶を濁そうとしているが。
世間の常識は「3桁おき」を「当たり前のこと」として受け入れている。
オレは子供の頃からそれがなんかむかついてならない。
それは間違っている。

あと、こうなったら同じ算数の話なのでついでに言わせてもらうが1階2階という数え方もオレは納得がいかない。
階段を4つしか昇ってないのになんでもう5階なんだ。
3階から階段で3フロアー分だけ下に降りたらなんで地下1階に着いてるんだ。
オレ達が普段1階だと思っているのは本当は0(ゼロ)階なのだ。
そうじゃないといろいろと困る。
そうじゃないと「10階まで階段で昇るのは5階まで階段で昇るのの2倍疲れる。」とか言うのも厳密に言うと間違いになってしまう(10階は階段を9回昇る。5階は階段を4回昇る。だから本当は2倍以上、2.25倍疲れている計算になる。)。

子供の頃「算数博士」と呼ばれたオレとしては今こそここでこの「3桁問題」と「1階は0階問題」の再考をみなさんに促したい。
子供の頃からどうもそこらへんの座りが悪くて気持ち悪くてしょうがないのだ。


2000 5/22

やましいことならたくさんあるが
それでも僕は胸を張る
歌おうじゃないか
声も高らかに
図々しくも切ない空よ

日常は遠い水平線のように
かなしく空を区切っている
僕はただ一人
宙に浮かんで
とうに陸地など忘れてしまっている
歌おうじゃないか
声も高らかに
図々しくも切ない空よ

景色のように僕のかなた
居留守を決めこむのじゃないが
どうにもここはどこでもない
きわめて個人的な事件に
君を巻き込んでしまうけれど
きちんと加害者面をして
開き直ってみせるつもりだよ

生きることの図々しさも
自意識のはしたなさも
存在の不謹慎さも
すべてを知ってもまだ生きているんじゃないか
なんてうしろめたい孤独なんだろう
なんて無力な誠実なんだろう

やましいことならたくさんあるが
それでも僕は胸を張る
歌おうじゃないか
声も高らかに
図々しくも切ない空よ






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